BS放送の「新日本風土記」で蔵の町、福島県喜多方市を特集していた。再放送だが、こんな番組は何度見てもいい。私の望郷を刺激してくれる。
「喜多方」といえば、ラーメンの町として知られる。醤油味でいわば中華そば。番組でも、その興りを伝えていた。潘さんという中国人が地元の鉱山に働き口を求めて入ったが、体が小さくて雇われず、思い余って始めたのが故郷の中華そばの屋台。こつこつ引いて歩き、今の日本名物に押し上げたのだという。
喜多方は2000メートルを越える修験の御山、飯豊(いいで)山が背後に控えている。冬は深い雪が覆っているが、そこから生まれて来る清い水で代々、酒米を造り、郷酒を醸造してきた。
蔵とラーメンと祭りの町。会津若松市との張り合いで地元意識も強く、「無尽」の助け合いが今も続いている。
そばはそばでも、喜多方にもう一つの麺、「日本そば」も今は名物らしい。里山の峠に8軒もの店が出ているという。「宮古在来」という種が栽培され、蔵で保存、供されている。
打ち初めのそばを、おばあさんが仏壇に供えていた。少し見上げる位置に設えられた仏様を見上げて「(出来立てを)上げる」と言っていた。そこで思い起こされた。普段私たちが使っている言葉、何々を「あげる」の言葉。これは単なる「やる」ではなく、「お供えする」という謙譲語あるいは丁寧語。まさに「差し上げる」の意味なのだということを。
この地元産そば、高校生たちが部活でそば打ちをやっていた。楽しそうだ。祖父母が伝えてきた大事なものを今、自分たちが継承しているという、使命感が楽しみを増しているようだ。
みな昔の人は御山を敬い、無尽で助け合い、天から与えられた仕事にコツコツと従事してきた。そして、集落が出来、村となり、町となり、蔵が立ち栄えていった。
番組は、朝崎郁恵が錆びた声を絞り出すあのテーマ曲が望郷を揺すぶって涙を流させる。
私の涙は、古里の父母兄弟、お世話になった師や友らへの不義理への悔恨を伴っているが、そんな涙でも心を洗ってくれる。
〝人生〟とは、大事な物事を、忘れていくこと、落としていく時間を謂う―私の場合だが。
父を忘れ、母を遠くに忘却し、兄妹を不在のように置いていく。そして日々、心しているのは些事ばかりだ。
フッと現実から立ち止まり、頭を巡るのは記憶。思い出にこそ実在が感じられる。
喜多方の人々の幸せは、喜多方という土地の〝時間と空間〟をそのままに今を生きているということ。いわば歴史を生きていることだろう。
私のような人間は、心の中で思い出に浸るほかあるまい。寂しさが募るばかりだが。