長崎の作家、青来有一氏の新作「ノンセクトラジカル」を読んだ(「三田文学」夏季号)。

 60~70年代の学生運動を題材に〝時代の忘れ物〟を掘り出すように記憶を紡いだ小説。 

 舞台は東京の繁華街、新宿。東洋人の混在する今や東洋の大都市だが、70年代は周縁にはまだ田舎の姿も見せていた。

 小説の主人公は高齢者ばかりになった離島の町長。

 本土とつなぐ渡船の廃止を止めるよう要請に上京したのだが、侮辱的な対応であしらう若い官僚の姿に、学生時代の自身の姿を重ね、悔恨と慙愧の念に捉われる。が、その苦悩のうちに町長は新宿の〝夢の領域〟に迷い込んでしまう。新宿騒乱事件の現場。そして樺美智子さんが圧死した国会突入、警官隊との乱闘。

 いつの間にか、デモの隊列に迷い込んでしまった主人公の体験とはーー。

〝コミカル〟に描いているが、実は〝深い話〟という青来流ドラマツルギー。

 

 青来氏はキリシタンであれ、御嶽であれ、被爆者であれ、モチーフそれぞれに土地の記憶を重ね、時間の深みに分け入る創作をしてきた。民俗学への造詣深さが背景に感じられ、物語にリアリティを与えているようだ。文章の背景に潜む土俗的な色合いが読者を引き込む作品群である。

 今回はその大都会版。新宿という土地の記憶を呼び起こし、私たちの完治しないままの青春の瘡蓋をはぎ取り、今の生きざまを問いかける。

 

 ところで、わたしのような軟な男でも、詰襟の学生服姿でデモに何度か参加した。そんな時代だった。

 デモの隊列に並んで、大学のある田舎町から繁華街に向かいだすと、いつもの指導者の一人(彼は同じクラスのオルガナイザーで入学時は勉強家だったが…)のそばに、やはりいつもの同じ若い警官が睨みながら彼のそばにぴったり付き従う。

 デモがシュプレヒコールを挙げながらジグザグを始めると、その警官が突然、彼の腕を力いっぱい引っ張り出すのである。デモの仲間たちがリーダーを捕られてなるものかと、こちらも片方の腕を引っ張り、彼は毎回、〝十字架上の信徒〟になり、どうにか救われるのだが、あの時の警官の顔は、端から見ても憎々しさに満ちていた。

 しかし、デモのたびに、なぜ同じ者同士が睨み合い、けんかするように相対していたのだろう? おそらく単に相性の悪い者同士だっただけ、と「ノンセクトラジカル」を読んで気づかされた。

 アンポとかオキナワとか、それはそれは大層な御題目を掲げたデモだったが、分け入って見ると、それぞれの学生たち、極めて個人的な目的や関係で会していたようだ。私の場合〝キャンパスのジャンヌ・ダルク〟会いたさに参加していた節もある。個人のその時の思いや喜び、憎しみや悔しさがデモの群れに貫徹していたのだなあ、と思う。

 学生運動に青春の火を燃やした彼らは今、離島の町長のように時代の牽引車として、老いた命の火を燃やし続けているのだろうか。いやいや、手のひらを反すように、かつての敵の安泰の椅子にふんぞり返っているのかもしれない。

 故樺美智子さんを裏切るような行為だけはすまい。

 「ノンセクト・ラジカル」はこんなことも問いかけてきた。