長与の歴史に詳しい獣医師で、「長与ぶらり散歩」などの著書がある近藤哲夫さんを訪ね、私の住む嬉里谷の氏神様「越後様」の由来についてお話を聞いた。
落ち武者が誰で何の戦かは「不明」としたうえで、「落ち武者伝説」は長与の方々にあると言われた。そうか、落人伝説か! 全国にある「平家の落人」である。宮崎の椎葉村、熊本の五家荘、四国・徳島の祖谷…。ここ長与だけでも嬉里谷の「越後様」のほか、先生によると、吉牟田郷の氏神様「摩利支天」そばにあった武士の守り本尊。本川内郷の平家の落ち武者の首石。日向国の落ち武者を祭る常林橋の「六部様」。長与・岡郷の長崎温泉「喜道庵」裏の畑の落ち武者の碑。挙げればきりがないほど落ち武者の歴史を伝える、あるいは悼む碑や祠がある。
長与と境界を接する長崎市側の変わり種地名「女の都」。「めのと」と読むのだが、近藤先生によると、平家の落人の女官たちの隠棲の里だった名残というではないか。ただ、「めのと」は「乳母」と書くことから、キリシタンの里に近いこともあり、聖母マリアに依った名称との説も強い。
さて、落ち武者を救い祭る因習は、人々のどんな心性を背景にしているのか。托鉢、各地に生きる弘法信仰八十八か所巡り、物乞い、四国巡礼…、さらに日本列島には、古くからサンカと呼ばれる山の民もいた。柳田民俗学に詳しいらしい。放浪の民は人々の日常を越えた神の使いとして歴史上に位置づけられる人々なのか。そして落ち武者も、そんな存在に祭り上げられていたのか。「越後様」は、年貢の苦しい時代を生きる民衆の癒しの神様だったかもしれない。
「落ち武者の遺跡はあちこちに、いくらでもある」と強調する近藤先生。さすが地元の郷土史を彩る家系に連なる研究家。微に入り細に入り詳しい。著作を手掛け、それに写真家であり、折り紙作家、ガラス工芸もお手のものというからすごい。子供や高齢者相手にマジックも披露する。90歳とは思えないパワーである。
近藤先生、いつまでもお元気で、また伺います。