美神は画家が追いかける存在ではなく、画家に降りて来るものだろう。

 〝美神のために描く〟など、美術の文法を外れている。やはり、今を生きる現実の何かのため、誰かのために美術するのだ。人が誰かのために生きるように。

 俺は未希のために描きたいーー。

 そんな想念を頭に浮かべながら京は、2メートル四方の麻布のロールに向かい、無我の境地で絵筆を動かした。床に敷いた大判のロールに呑み込まれ、泳ぎ、溺れる格好だ。乾ききらない速乾性のリキテックスの画面に汗がしたたり落ちる。絵具で硬くなった作業着の綿パンに新しい絵具が滴り、重なった。京はそのままに任せた。

 久しぶりに美術する興奮を覚えた。自分が生み出す明彩色の世界に漂う我を意識した。もはや、絵を対象として見る自分ではなくなっていた。絵の内部から、色のレリーフで飾り付けながら遠く無限の宇宙に向かう感覚だった。

 京は、希望のようなものを色の構成の奥に見出した気がした。

 

 加茂川がトロトロとリズミカルな流れを維持しながら勇の耳に届いていた。優しい川音は耳から心にまで流れ、癒してくれる。勇は清流と同化した心の中の自分を見つめた。

 心身の疲労が忍耐の限界を超え、工房事務所の机に頭を伏せていた。

 いつもの作業である図案のアイデアも頭の中に形を結ばない。集中できない。

伝統の手織りの最初の大切な工程である。先染めした糸を織り出す織子の〝自然な動き〟を求めた意匠。織子の負担を減らすデザインである。勇の編み出した技術として業界に定評を博してきた。

 だが、伝統の手織りに馴染む意匠とは、結局は芸術性よりも合理性を求めた工芸ではないか? 勇自身の迷いが図案に反映されていた。

 仕事に賭ける限界が生きる限界に更に負担となって重なった。

 悔恨である。母、栄とともに悔恨の日々である。その気づまりが限界なのだ。

「母さん、あんさんも、あこぎじゃ。真実を知りとおます」

「真実いうても、そんな人はいいひん…そないに、いちゃもんつけな。何が知りとうおすのじゃ」

 二人の日課となった会話も、もはや限界が見えて来た。心身を支えていた防波堤の決壊が二人に現れてきた。