「京さんよ、そりゃあ屁理屈ってもんだぜ。芸術てえのは、美しいなあ、愛おしいなあと感じ入る高尚な代物だぜ。見てて触って、何がそう感じ入りさせるのか、しかとは分からねーがな」

 根岸叔父は透明の切子グラスに注いだ日本酒を飲み干し、言葉にして吐いた。

「理屈をつけて値を付けるのは、その後のことさ、そうだろう。天塩にかけた切子を、ほれ込んだと欲しがってもらえりゃあ、ロハでもくれてやりたくなるもんよ。切子が赤い糸で結ばれた伴侶を見つけたようなもんだからさ」

 京は根岸叔父の切子グラスが一様に暗さを帯びて映えるのを見逃さなかった。全体に紅であれ青であれ、暗色が覆っているようだ。暗い電球がその表面をボーッと控えめに照らす。闇に切子グラス同士の光が映え合って菊の文様を隈取っている。

「なんの考えもなしに作っているように見えてもな、実際、そうかもしれねえがな、精魂込めて生み出した切子たちでえ。おれの欲と恥とが溶け合った色ガラスさ。真っさらな健全な色合いによ、美の女神様がおじゃるだろうか。お望みではなかろう」

 根岸叔父は「悩め悩め、とことん悩みな。悩みながら切子は生まれるのよ。京さんもよ、おんなじだろう」孤立感に立たされた京を、「皆同じよ」と励ました。職人魂の挑発かもしれない。

 芸術は誠実さと不実さのせめぎ合いの中に生れるー。確かにそうだろう。「…そうして、誠実さを求めて営みを始めるってわけか?」

 京は長く父を拒否して生きて来た。不実、裏切り、責任放棄…。美術家としての実績は認めざるをえない。一時期だが流派を率いて美術史に残る実績を残した人物なのだ。それに、そのうえにー。京は自身の制作方法が結局、父に倣うような道を歩いているのに愕然としたのだ。そのことに気付いたのは、ここ最近のことだ。未希は気づいているのかどうか…。

 「ビール飲まない?」と未希が食卓に缶を2本置いた。久しぶりだ。未希も根岸叔父の元気な姿に安心したのだろう。よかった。

 「今日は酒が飲みたいな、叔父さんみたいに江戸切子で」

京の意外な申し出に未希はうれしくなった。京の苦境が少しは晴れたのかもしれない。

 京は思った。「真っさらな健全な色合いか」。干潟は汚泥ではないのだ。干潟はあらゆる生き物の生命を育む豊穣の世界なのだ。人間界は干潟なのだな。「この世は干潟か」と思うと、京は少し明るい気分になった。