成夫と勇は工房を出た。鴨川の水面が日の光に命を注がれるように照り輝いている。

すぐ近くに、原色の幟の連なりが5月の風にはためいて眼を刺激する。

「この色彩ですねえ。京都の雅、派手な色彩は京文化の伝統でしょう」

成夫は、伝統工芸に打ち込む勇への妬み抑えるように「なるほどねえ」とうなずいて見せた。

そんな成夫の心の動きを見通したかのように顔を上げた勇は話題を転じた。

 「けったいでっしゃろ。…嵐山の下のな、桂川ギャラリーさんでおもろい美術展をやってますさかい、見てみなはれ。元々、山口の人いうから見に行ったんやけんど、えろう激しい色で私なんか、見てて頭がボーとなってもうて」

 成夫は「見てきましたよ。派手な作品でしたね…私の同級生なんです」「えっ、そうでっか」

 一瞬の沈黙が流れ、勇が口を開いた。

古い町家の暗い部屋でっしゃろ、あんな明るい原色の球体やら方形が広がる構図は、やはり異様な光景どす。山口生まれと言わはりましたな。絵は東京の人のものどすわ」

 成夫は京を救おうとの意識にかられて言葉が出た。「山口も雅な西の京都ですから、類似する文化現象はあると思いますよ」

「そうどすな。ま、たんのしましたわ」と勇は続けた。「友禅はもちろん雅楽や座敷舞、お香、茶、それに旧家にある昔からの家具調度もそうどすが、なにもかもよその物とは深みがちがいますさかい。あの絵描きさん京さんどすな、あの絵は深みがあります。抽象画に転身する前の女と猫の絵もありましたが、あれもいい絵でした。緑の単色で太く引いた輪郭だけの画面に、ようよう見たら女と猫の目の瞳だけはまっかいけ。黄も添えとりましたな。そん目をズームして拡大した画面が近作の抽象画でしょうなあ。白い地塗りの丹念な仕事がえらい深みをだしとります。京都人は深みを好いとりますさかいなあ」

 成夫は勇を見つめながら聞いていたが、彼の言葉に笑みが浮かんだ。

「『女と猫』もよかったでしょう」

「あの絵描きさん、また女と猫を描かれるんとちがいますか。美はメッセージやさかい」

 成夫は一瞬思考がとぎれた。謎めいた勇の言葉に。兄は京の絵を分かってくれているとの思いが成夫を上気させた。

 ーおれには理解が行かない抽象画だが、なぜか、なんともいい気分にさせてくれる。その理由が分からんーー。だが、美の匠には分かるのだ。

 それにしても、また女と猫を描くと? ズームが解かれて平常の視界に帰る、ということか。まるで「ミクロの決死圏」ではないか。一人笑みを浮かべた。

 「では、ここら辺で」と勇が土手道の切れる橋のたもとで立ち止まった。「おきばりやっしゃ」

 成夫は「また会いましょう」と握手を求め、強く大きな声で兄に別れの挨拶をした。

 これから先、いつ会えるのか。もはや永別を待つばかりか……成夫の胸に寂寥の波が寄せて来た。

〝美はメッセージやさかい〟勇の最後の言葉が切々と成夫の心に迫って来た。