花街の大通りから斜めに逸れた路地のような狭い通りを入ると、茶屋や反物、着物の店が窮屈そうに続いている。
置屋「小箱」はその一角に古い引き戸を見せていた。軒先から小さな古木の看板「小箱」が吊るされていた。細い墨文字が「もっさいけど…」と遠慮しいしい、だが、しっかり「おいでやす」と迎えてくれているようだ。
ごめんください、と声を掛けながら、成夫は、探るようなしぐさで暗い上がり框に入った。
「ごめんください。山口の成夫です」と奥に続く細く長い土間に声を張り上げた。
「はい、はい。成ちゃん」と艶のある老女の声が、意外に近くから聞こえた。
「栄おばさんですか。いやあ、お元気で、いつもお若いですねえ」
「おおきに、お世辞でも、うれしゅうおます。成ちゃんも変わらしまへんなあ。さ、さお上がりに」
成夫は導かれるままに奥に歩を進め、丸火鉢のある上がり框で靴を脱ぎ、栄について小さな離れの居間に腰を落とした。
―京間の四畳半。床の間には恐らく長く架け替えられないままだろう、古い山水画が沈黙を保っている。床映りのいい軸物だ。醸し出す空気が小部屋を支配している。
栄は米寿になるはずだ。父は卒寿を前に施設で息を引き取った。
晩年は、元気なころの恰幅ぶりがうそのようにやせ細り、派手な付き合いも断ち切って、般若心経を唱える日々だった。そのうちに寝たきりになった。
家業の自動車修理工場は、戦後の朝鮮戦争景気で一気に活気付き、父も同業の仲間と組合の研修名目で下関の花街を闊歩していたと聞いた。券番の盛んな頃で、父も芸者遊びの真似事をしていたらしい。
栄と知り合ったのは、この下関で、このころの栄は、まだ見習の舞子にもならない、うぶな娘だったという。
半世紀も過ぎた今に至っても、亡き父の想い出を、しっかりと胸に仕舞い込んでいる栄に、成夫はただただ感謝するばかり。ありがたく、ひたすらお礼を述べるのだった。
京都行の目的、京の個展観覧と栄への挨拶を濃い茶をすすりながら述べた。
「あんさんは、えらしりやねえ」。現代美術と自動車工場のおやじの接点が、栄にとっては意外のようだった。
「いやあ、わかりゃせんです。卒業した工業高校がデザイン科でして、車のデザインをかじったんで、それだけですよ」
「そうは言うても、こんなん見て楽しい気分になりはるのやろ」
「栄さんは、どうですか」とカタログを見せると、「あんじょう、描いてはるんはわかる。うちは、じゅんさいな人間やさかいなあ」
笑顔を作り、茶を入れ替えると言って、部屋を出て行った。
……………
私も笑みが浮かんだ。父の過去を今から暴く前段として交わしたジャブの応酬のようでもあった。
栄は、私の訪問の目的が父の一件であることは聞かずとも分かっているのだ。
父と兄の間で何があったのか、地域で尊敬される存在として生きた父。亡き兄の自裁の動機が、この父にあるのだと私には分かる。母ら家族も地域の人々も、父が就職や結婚などなにくれとなく世話をした近所の人たちも真相は知っていることだ。
だが禁忌のように真の事の成り行きと父の真の姿は誰にも知らされない。兄はなぜ自ら薬を飲んだのか。何が私の兄であること、父の子であることを拒んだのか、私は知りたい。