「お疲れおすやろ。お風呂沸いとりますさかい、汗をお流しになって」

 成夫は小ぎれいに和服を着付けた中年の中居の言われるままに風呂場に向かった。

湯屋は、自然な植え込みで別世界を演出した坪庭を回り、磨き抜かれた廊下を歩いた先の離れに設えてあった。

 中居とは言え、接客にかけた気位が競い立つような友禅の着物だった。そんなことを思いながら成夫は湯けむりにかすむ、これも古い和ガラスの立て付けの良い戸を開けた。

 熱めの湯に浸かり、久々の京の笑顔を思い返した。いつもの笑顔とは言え、なぜ俺には笑顔の輪郭の後ろに陰が見えるのか。その陰の意味は、彼が画家として、俺の居場所から遠のいてしまったことの後ろめたさの顕現のようにも思われる。

 成夫は、〝遠慮せずに進むがいい。美術家だろう、頂点を目指して闘ってくれ〟。

ーそんなことを思った、所詮、自分は埒外の人間なのだ。何を気にすることがあろう。自分の道を突き進んでほしい。「うん、うん…」、ひとり納得して、顔に湯を打って早々と上がったのだった。

 膳が設えてあった。注文通り、ビールはサッポロが1本、それに焼酎のロック。せっかくの京料理であるが、彼は食い物には淡泊なたちで、何でもよかった。

 窓側のベランダのテーブルに雑誌があった。「京都美術」。美術展の情報誌だった。

 京の展覧会も掲載しているか? とページを繰ると―あった、あった。

1ページをとって彼の画業について長々書いている。

成夫は、けっして読書家ではないが、すぐに目がいき、苦手な活字を追った。

  コラム《回転木馬》「美術の未来」と題していた。

             ◇

 人工知能「AI」と人間との知能のせめぎ合いが続いている。

 感情に関わる領域さえもAIが浸透し、人は最後の砦を譲らねばならない形勢だ。

人間の持つ高度な機能ー感情さえも数式化できるという。

美への認識や感応、表現行為の際の手段の選択にも独自に対応するということか。

 さらに人間にとって、存在を脅かすのはクローンの登場である。

このクローン軍団を従えた神としてのAIが創作ではなく現実の近未来の姿として遠望できる。

細胞で同じ〝人間〟がロボット軍団のように生み出せるのだ。

 AI+クローンに対抗できる「原人間」集団は可能か。

我々の世代は未だに、デジタルに対抗するアナログ人間の砦に籠っている状態なのだ。

 私は以前、「AIも美術する人間にはかなわない」話を、このコラムで紹介した。

それは、この美術論の新刊書「美のドグマ」の著者KYOWAこと京氏の展開する論なのである。

令和の時代から22世紀を今に感応させる美術は可能であるか?! 未知の美術の可能性を実践する彼の希望に満ちた美術論集である。

 AI時代の美術の在り方を探るKYOWA。彼は令和元年の今、何と四つに組み闘っているのか。

強敵は、実は「自分自身」なのではないか。意味不明の存在である自身のリアルをいかに表現するか、闘いの日々なのだ。となると、AIはそもそも克服すべき敵なのかどうか…。 

 私はこの春、久しぶりに、東京近郊のとある中山間地、自然豊かな里山にある彼のアトリエを訪ねた。彼は、やはり、はにかみ気味の笑顔で迎えてくれた。苦難の美術に身を投じた者の行者のような面立ちと言えば大げさか。

 驚いたことに、難敵AIさえも制作の素材として融和の姿勢でカンバスに対している日々であった。美の創出におけるAIとの融和とは? 新刊書「美のドグマ」、美術愛好者に一読を勧めたい。(阿鼻)

               ◇

 「なるほどなー」成夫はフーッと一息入れてグラスに残るビールを飲みほした。展覧会の紹介よりも京の著作の紹介に力を入れた一文だった。刊行してすぐに献呈を受けた。幼い頃の思い出部分は興味深く読めたが、肝心の美術論は、スルーであった。

 成夫は〝こんな古い家屋の部屋には京のあの派手な絵はどう映るのかな〟ーそんなことを思った。時代とか伝統とか継承とか、そのような概念の意味について思った。