〝否定〟を起点にした京の絵には、生まれ育った「土地の記憶」といった表徴が見えない。過去の作品もそうだ。このことは京自身が認識している。
幼い頃から一緒に育った成夫は、そんな田舎の風景や匂いが素人目にも感じられないのが実は残念なのだ。生まれた地元の田園風景や茅葺農家の絵も描いてほしいと、素朴に思ったりする。
しかし、京にはどうすることもできない。感性が求める表現の世界である。親子関係など、さまざまな属性を拒む作家精神が、意識しないままに表現意図、画面構成に表れているのだろう。ただ玄人筋からは「時間や時代が画面から伝わってくる」などと評価されるのだ。
成夫にとっては、自分が理解できる絵から専門家好みの絵を描くようになった京を誇らしく思う反面、物足りなさはある。だが、「うまい!」とエールを送るほかない。それだけ圧倒する迫力が抽象画面に生み出されているということだろう。「よう分からんが、いいなあ」と自然に言葉が出るのだ。
そんな成夫のとまどいを理解する京は、どうしても成夫を見る目が伏し目がちになる。〝すまないな、お前好みの絵は描けなくなった〟と心の中で詫びた。
帰り支度を始めた成夫に「よう来てくれたなあ」と、京は旧作の子犬を描いた小品一点を紙袋に入れて土産に持たせ、古い格子戸を開けて先に玄関に立った。
「じゃ、また会おうぜ」 「おお、またなあ」
お互いに、いつも交わす言葉をこの日も挨拶がわりに交わして別れた。成夫の背中が京の目に痩せて見え、関係が遠くなったように思えた。自分のせいだと我を責めるしかなかった。
その成夫はと言うと、狭い路地を歩きながら京の意外な明るさに安堵したのだった。〝うん、芸術家は難しいもんだなあ〟と、つぶやきがこぼれた。
〝あいつは、おれの分からんところに行ってしもうた。おやじさんもそうだった。血は争えん〟
そんなことを考えながら成夫は、京の町家風景に目を癒されながら宿に向かって歩いた。
町家の楽しさは何から生まれるのだろうか? 目に見える形のようだが、醸し出す空気や匂いや静かに聞こえる生活の音かもしれない。道々、成夫は町家の玄関を覗きながら考えた。
技術を磨くこと、腕を磨くことは俺たち修理工だって同じ。絵かきだけの物ではない。ただ違いは、画家たちは俺たちのように皆が同じ終着点を目指して腕を磨くのではないということ。個性という動力が、それぞれ違う終着点に導くのだ。この個性が何やら分からないままだから困るのではないか? この苦闘が京たち美術作家にはあるようだ。
〝難しいなあ〟そんなことを考えながら歩いているうちに成夫は宿に着いていた。(未完)