新作の画面は色彩の群舞。棒状に細紐状に、そしてアメーバ状に感じたまま密度濃く絵の具が蠢いている。

〝また変わったな〟。成夫は会場中央の長椅子に腰を降ろして眺め回した。

〝父親からまた遠くなった〟。そんな感想を独りつぶやいた。

「どうだい感想は。このごろ思うことが多くてね。結局、この手の絵を追求しているんだ」

「いいねえ、隙がない」と、成夫は分かったつもりで言葉を返した。しかし当たっているのかどうか、なにせ素人なのだ。感じたままの言葉を投げかけた。

 

 ライトの明かりを落した古民家の一室に蠢く色たち。何か新種の生き物がかび臭い匂いの中に住み着いたように見える。展示の場が京都という古都なので、好ましく感じていた若い当時の大和絵のような具象画を並べるのかと思っていた。共の父は抽象画だけでなく具象や半具象画も描いていた。共も同じ道程に挑んでいるのか。

〝親子は親子だ〟こんな思いを成夫は持った。どんなに否定しようがDNAには逆らえない。むしろ否定すればするほど親を意識し、血の関係が濃くなり、他人に「親子」を印象付けてしまう。

 共は「おれはオイディプスなんだよ」と言った。だが、成夫には何やら分からなかった。美術関係の言葉なのだろう、とその場ではやり過ごしたが、ギリシヤ神話に登場する父親の王を殺害した子の名前だと知ったのは、地元の短大に通う娘に尋ねてからだった。

〝なんということか。実の父親を全否定できるのか?〟

血縁の苦しみによくも耐えられるものだ。

 成夫は、何かにつけ亡き父親の面影にすがる自分を思うと同時に、彼の苦渋に満ちた父親否定の哀しみが痛切に迫って来た。懐かしい存在として父親のあれこれを記憶にとどめ続ける成夫だ。重圧あるいは壁の存在として父親の何もかもを消し去ろうとする共の心情が思いやられ、抱きしめたくなるのだった。

 「無理をするなよ、素直になれよ」と声を掛けたくなるのだが、できなかった。

 具象画を描いていた彼の父も抽象画で大成した。共の画家の営みは同じ道を歩いているようにも感じる。〝血は争えない〟。あの画家に、この画家ありだ。独自の画面だが同じ手順を踏みながら芸術家の道を歩んでいるようにも感じるのだった。

 同じ道だが違う道ーー。ふと我に返り、自動車修理工場のおやじが京都で芸術を考えている構図を思って、成夫は一人フフフと笑った。

 父親の手法を否定しているが、その父親が開いた大きな新しい芸術の道からは外れようがないのだろう。流派の流れの一筋として、意図せず乗っているのだ。共は、否定する父親を栄養に画家となり、父親が開いた大道を突き進んでいる。そんな関係が成夫の頭に浮かんだ。

そして思い至った。〝おれの商売と違わんではないか〟。