真夏の午後、じりじりと照り付ける太陽の日の下で二人の子供が五寸釘で地面に絵を描いている。一人の子はしゃれたリボンの付いた布の帽子、もう一人は古い麦わら帽子。布の帽子の子は白い顔に汗をにじませ、大きな円を連続に繋げながら中庭いっぱいに広げていく。もう一人の麦わら帽子の子は人物だろうか、大人の男女らしき顔、こどもの顔らしきものを並べて描き連ねている。この子のズボンはおしりにツギをあてた霜降り、布の帽子の子はチェック柄のバミューダ。品のある家庭を思わせるズボンだ。二人それぞれの家の暮らしぶりが推し量れる。
「お月さまも丸い、みんな丸い。地球も丸いんだって」と色白の子。
麦わらの子は「宇宙戦艦だ。突撃、オーッ」。
二人の子の〝地上絵〟はどんどん膨らんでいき、そのうち、描く線が重なってしまった。
「なんだ、きょうちゃん。宇宙戦隊にやられたんだから、ここは僕の絵なんだ」
「でも僕は宇宙なんだから、負けるものはないんだぞ」
「邪魔だって。ええーい」と麦わらの子は釘で無数の輪をぐじゃぐじゃにしてしまった。
「宇宙戦艦やまと~」などと声を上げながら続ける。
「あー」と叫んだ布帽子の子は口を強く結んで麦わらの子のその所業をながめていた。
広い庭の〝大キャンバス〟の円が麦わらの子の釘でかき消され、ただの荒れた庭に戻った。
布帽子の子は茫然と事態を眺めているうちに目から涙が流れだした。
と、えい!と小さな叫びとともに五寸釘を麦わらの子の手の甲に刺した。
あっ、と二人から小さな叫びが聞こえた。甲に倒れた釘の跡から血が滲んできた。
牛舎の前の広い庭から「わー」と泣き叫ぶ声が辺りに広がった。
食事をしていた隣同士の両家の母親が驚いて飛び出て来た。
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あれから半世紀が過ぎた。
麦わら帽子の子「なっちゃん」こと成夫は家業の自動車修理工場をすでに子に譲り、おやじさんになっている。布帽子の子「きょうちゃん」こと橋爪京は京都で亡き父親と同じ画家としてひたすら制作の日々である。
こう書けば、それぞれ穏やかな日々を送る高齢者同士に見えるが、京の顔には憔悴の跡が深いしわに伺える。
成夫は、父親の遺した事業を、記憶にある父の日々の行動をなぞるようにして継ぎ、会社を維持してきた。そして息子に譲った。息子は車販売の商いも併せて始め、軌道に乗っている。
しかし、京は、ことが芸術である。作家として自立した独自の世界を開くことが仕事。同じ美術作家として名を成した父の遺産が、京には自立の壁となって立ち塞がるのだ。継承は不可能な世界である。
京親子は普通の親子ではなかった。父親の自由奔放な生き方に振り回された幼少期、青年期だった。画業を積み、青年・壮年期に入り、美術界で個展など動きを起こすたびに相手の口から必ず父親の名前が出る。〝おれの絵はどうなんだよ〟との悔しさが希望を塞ぐ。
父の起こした美術の流派にも憎しみが湧く。父の所業を、美の世界に政治を持ち込む堕落との思いがあった。
〝おれは、ただただ素晴らしい絵を描きたいだけだ。画家は作品がすべてだ〟。
成夫は一人、京都の旅を楽しんでいた。若い頃に業者仲間で行楽に訪れて以来の京都である。京からの祇園での作品展開催の知らせも京都行きの背中を押した。さらに、京都には成夫の父が親しんだ芸子で後に茶屋のおかみとして舞子の指導にもあたっていた老いたおばさんにも会いたい。もう90歳を超えるだろう。しかし父の面影をさぐる縁となる大切な老婆なのだ。
成夫はこのごろ、父親の時々の所業を真似ながら過ごしている感覚に陥る。老いの道に入った成夫にとっては、父は悔しくまた懐かしい、抱かれたい存在なのだ。だからこそ、父の真実を知りたい。孫との会話で、いつも父が発していた言葉や身のこなしをなぞっている。孫を叱る時にも生まれ故郷の方言が意識しないままに出る。こんな時いつも亡き父が寄り添い、微笑みながら自分を見つめていた。この異空間を行き来する感覚を度々楽しんでいる。幸福感に浸る一瞬なのである。
ことほどさように、葛藤を含め父と男の子は強いきずなで結ばれているはずなのだ。