特産のミカン園が広がる長崎県北部、その里山の嬉里谷と名乗る地区に「越後様」と称する社がある。背の高い樹木2、3本に覆われ、山つつじなど常緑樹に囲まれた鎮守の森の雰囲気がここだけに漂っている。だが、表通りを直角に折れて山道を登る途中にあることから、普段は目にする機会はない。

 その名の由来が知りたくて何度か足を運んだ。簡素な堂内には1メートル余りの自然石の碑が立っているが、碑面の文字がうまく読めないし意味も理解できない。

 そこで、町の図書館の郷土誌をひも解いてみると、「妙法 越後菩薩 勢至観世音菩薩」と刻まれているらしい。

 確かに通称「越後様」の名の通りの菩薩。ではなぜ、越後の仏様がここに?

 郷土誌は続けて、「言い伝えによれば江戸時代末期に越後の国の落ち武者を嬉里谷の勝次郎、為吉の両人が祭っていたが、明治初年から地区で祭るようになった。---勢至観世音菩薩は勢至菩薩と観世音菩薩の意で、勢至菩薩は智恵の力で衆生の迷いを除くとされ、観世音菩薩とともに阿弥陀如来の脇に持し、阿弥陀三尊の形で知られている」とある。

 長く鎮座されてきた仏様がどんな方かは分かった気になるが、やはり由来が不明。

「江戸時代末期に」の文言は「勝次郎、為吉の両人が祭っていた」にかかると言葉と理解される。とすると勝次郎、為吉は江戸時代から明治にかけての人。

 なぜ明治になり「地区で祭るようになったのか」。「越後の国の落ち武者」とは何者で、いつの時代の何の戦による「落ち武者」なのか―が全く不明。

 ただ、「明治初年から地区で祭る……」との文言に時代背景、〝廃仏毀釈〟を重ねると、何かがあることに気付く。

 私は「落ち武者」に勝手な想像が湧いた。

 それは、遠く越後の国に出兵した明治政府軍に従軍した人、あるいはこの九州の山里まで逃げ延びた幕府軍の残党か? 逃げ帰った地元の若者も、逃げ延びた陸奥の兵士も、山里の農民には、お国の守り神なのだ。

 この町では、「郷土誌」を読み直し、充実させる会が活動しているが、この不思議な「越後様」は、まだ手付かずのようだ。何か解明のための古文書など史料があるのかないのか……。