千葉の小学4年女児の父親による虐待死は、事実が明るみに出れば出るほど公務員のサボタージュの実態がクローズアップされてくる。たった今ネットを覗くと、なんと学校の児童たち向けアンケートに女児は父親の虐待を訴え、助けを求めていた。許せないのは教委の幹部が、父親が怖くて女児の回答を父親に見せてしまったというではないか。なんということか!!!!
児相職員のサボタージュで、いたいけな女の子が、覚えたばかりの文字で親に「許して」と嘆願していたが殺された事件は、この職員たちにはなんの教訓にもなっていないのだ。
全員、公務員を辞めてほしい。
私が腹立たしいのは、無責任体制が公務員たちだけではないこと。ジャーナリズムの情けなさだ。30日の大手新聞のコラムは千葉の女児の死を取り上げていたが、嘆き節で一貫。責任を問う姿勢なし。繰り返される幼い命の犠牲に対する悲しみと怒りがない。
「この敗残感と悔しさは何だろう。また負けたー。」何をとぼけたことを書いているのか。原因と結果は、学習を重ねているので周知のことだろう。虐待殺人に加担したともとれるダメ公務員の機構を解析する記事がなぜ書けない。「小さな子が旅立った。寒かっただろう」とは、何をのんきな。以上は読売の「編集手帳」。よそ事のごと感想を述べるダメコラム子。
で、「朝日」はなんと?
「問題はあることは認識されていたのにーー。児童相談所も学校も、地域もーー」と天声人語子。続けて「新聞も」と書くべきだろう!! さらに「痛ましい事件なぜなくならない」と思考停止を思わせる文章。?!?!。何をのんきな、情けない。テレビドラマの感想でも語っているのか。
ジャーナリズムは死んだと、この頃、度々思わされる。…が、どこか期待してしまう。特に地方紙への期待大である。
日々伝えられる政治不祥事や社会悪。ストレスはたまるばかりだ。我々はどう向き合えばいいのだろうか。