初日の出を迎えるために自宅から登山口まで1時間半、国道や街中を自転車で走った。その間に出合ったこと、思ったことを3点、メモにしておきたい。

 ①相変わらず身辺無関心の若者たち。

 ②相変わらず影におびえる私自身。

 ③善行、悪行は絶対的な存在に気付く。

以上の3点。

 自転車は手に入れて20数年になるオフロード。古希を迎える身にとっては股が痛いし、ふらつくし…。車道は後部から疾駆してくる車が怖くて、どうしても歩道を走ることになる。

 新年初日ともなると初詣の若者も行き来する。皆さん、普段同様スマホ片手に下を向いたまま。彼や彼女を道端で待つ若者にぶつかりそうになる。自転車ベルを鳴らすもスマホの若者、全く意に介さない。オットットとふらつき、すれすれに自転車を操作する私と顔を見合わせることもなく、携帯を耳にあてたまま気持ちだけ体をずらす。見えているのは待ち焦がれている携帯の向こうの彼、彼女ーといった具合だ。何度、ぶつかりそうになったか。せめて顔を見合わせて、互いに会釈したい。安全確認だ。

 薄暗い街中、ビル街の歩道を走っていて、アッーと叫んだ。突然ビルの路地から自転車が!

と思いきや、磨き上げられたデカイ黒御影石の壁に写った自分自身の影だった。こんな時刻は影があちこちに出回るので要注意だ。影におびえる臆病者。家屋の玄関口や溝も危険。影で実態をつかめないままに、そばを走る。物事を見誤り、とんでもない結果を招く。

 そして、3つ目。日の出と競争する身の私。車や人が少ないことをいいことに、ついつい赤信号を無視して自転車を走らせた。アッ、やっちゃった、とつかの間の反省。しかし、これを一度やると、癖になる。で、次の赤信号で止まり、普段通りに戻って反省の気持ちを確かめたのだが、その横を人が渡っていく。うん、私は私、信号を守らねばと、先ほどの信号違反の借りを返したつもり。だが、気持ちはやはり収まらない。自ら宣告した違反者のレッテルは消えないのだ。どんなに信号を守ったとして、違反の前科はなくならない。

 悪行は善行で消し去ることはできない。(信号を守ることが善行ではないのだが)。どんなに善行を重ねても、たった一度の悪行は消すことはできないのだ。そう、善行・悪行は〝絶対的な倫理〟。一度の過ちは一生背負って人生の重荷にしなければならない。

 以上、本年元旦を飾る私の迎春登山行での思索のあれこれを認めてみました。お正月ぐらい、自分を顧みて、自省に浸る時間を取りたいですね。

 あ、そうそう、救急車の出動も多かった。1時間半の道々、通過したのは4台あった。これも世相でしょうか。