卒論で書いたのだからもう45年前のことだ。

森田草平の「煤煙」を半世紀ぶりに読んだ(岩波文庫で復刊)。

 森田は漱石山脈につらなる一人。

 若き平塚らいてふとの熱愛の奇行を書いた売れない作家の〝命がけ〟の小説

漱石の計らいで朝日新聞に連載すると話題をさらい、たちまち売れっ子小説家になった。

主人公の要吉とらいてふの朋子との、純粋な恋というか熱愛関係の行きついた末の心中行。

雪深い山中に、懐剣を忍ばせて決行する。

 しかし谷間の果てに着いたところで男が「生きるんだ」と叫ぶではないか。

ああああ、こんな結末だったっけ…。

 卒論では、作中に頻出するダンヌンツィオの「死の勝利」の真似事を、草平が起死回生を狙って決行した、などと書いた。草平は戦後、左翼に転身する。らいてふは元々そうだ。

私の本音は、あこがれのらいてふを汚されたようで、草平が汚らわしく感じた。彼の下心を暴きたかった。卒論でそんなあ、と言われそうだが、でも、そうだった。

 卒論の検討で現代文学担当の助川先生から一言二言質問があり、じろりと睨みつけられた。私の下心はバレていたようだ。

 ところで、私はてっきり、白糸の滝?に二人で飛び込んだと思い込んでいた。そうではなかった。卒論当時読んだ解説に、背景に自殺の流行があるなどとあったことと混同したようだ。

 話は飛んで、川端の「雪国」。私は主人公島村の毎回の雪山登山に自殺願望あるいは心中願望を感じた。死に場所を求めての雪国行なのだ。

 川端は幼き日、天涯孤独を生きた。肉親の愛を受容できないままに生きた。人を穴のあくほど見つめる大きな目は、そんな人間不信の姿と見る。お駒を心中相手に選んだ島村だが、葉子の登場で迷いが吹っ切れないままに終わったーと強引な読み解きをしたのだが、いかがだろう。

 この島村自殺行説の動機に、どうやら、「煤煙」が絡んでいたようだ、と今にして気付いた。

とまあ、強引ですが芸術作品の世界、いかようにも理解できるとお許しください。