5歳のかわいい女の子、結愛ちゃんが若い両親の凄絶な虐待で死んだ。小学校に上がる準備で覚えたばかりのかな文字で、「いい子になるからゆるしてください」と一生懸命に書いた紙片が見つかった。未来を切り開くはずだった文字が無残に死神により怒りを買い惨殺されたのだ。
数日、私は気分が重くて何をしていてもこの子のかわいい映像が浮んできてやりきれない。鬼同然の父と母、なぜ???
母親の顔は憤怒の末に完成された鬼の顔、父親の顔はなぜか優男、普通の顔立ち。なぜだろう、幼女殺人、連続殺人を犯した男たちは、いずれも優男。いかにもといったやくざ顔ではないのだ。「女の顔は自ら作り、男の顔は状況によって作られる」ということか。それとも女は激情をそのまま外部に出し、男は激情を内部にためて演じているのだろうか。
そして児童相談所。仕事をしない役所の象徴のようではないか。何人の子供たちを、親の虐待の餌食にすればいいのか、何のための児相か。映画「いつか読書する日」で児相職員たちが子供救出の是非を決める場面があった。担当職員が参加してフローチャートで状況把握。多数決で救出「する」「しない」を決める。そこには一人一人の職員の都合への配慮が働く。
私は言いたい。子供の命救出は決して相対的な仕事ではない。「絶対」の行動ではないか。
あまりにも早くあの世に逝った結愛ちゃん、安らかに、どうぞ許してください。