私は次男である。主体性に難がある。人の顔を見ながらその場、その場を演じるように生きてきたようだ。周囲の力関係の中で泳ぐように生きてきたといえる。

 そんな自分を、寝たきりの義母が「弘さん(仮名)は昔からいいように使われる」と苦笑いしながら吐くように言った。ズンと心に響いた。彼女を見舞った時のことだ。

 義母は元気なころ、婿の私も含めて家族の面倒をよく見てくれた。で、私は会社人間を全うできた。女房もパートで、子どものことは義父母に任せっ切りだった。私は会社に逃げていたのか。家族を二の次に置いた私の行動、言動を、義母はあきれた気持ちで眺めていたのだろう。

 だが待ってほしい。私は周囲に、いいように使われていたのか? 決してそうではなく、いいように泳いでいたのだ。自ら主体的に身を処していた。自身の持ち味は自分では分かりにくくて見えないものだ。求められて気づくことが多い。確かに自己主張は弱いが、これは性格である。私は人々から何を求められているのか、自分はどれだけのものかー。求められる〝任務〟がすなわち私の〝持ち味〟なのだ。

 「いいように使われる人間」、それでいいではないか。きわどく生きる人間と思ってもらいたい。もちろん、能力は低い段階で限界があるが…。

 義母に反論できるだけの自己省察をしておけばよかった。もっと、自分を見つめて自分を認めよう。一周忌が近い。