称名寺とは

 

京浜急行「金沢文庫」駅最寄りの名所旧跡といったら、そう称名寺ですよね。

大河ドラマで話題の北条氏の一族である金沢北条氏一門の菩提寺です。開基は

北条実時です。

境内は国の史跡であり、朱塗りの太鼓橋が印象的な浄土式庭園と国宝、重文を数多く所蔵している金沢文庫で知られます。大きな仁王様がいる仁王門も見どころです。

 

現在の称名寺境内。浄土庭園はそのまま、中央の朱塗りの橋が印象的で、古刹らしい静けさが漂っています。そこそこ観光客は多いです。

 

 

 

  百番観世音霊場の謎とは

 

僕も桜の季節などに癒されによく参詣させてもらってます。

が、行くたびに気になっていたものがあります。

これです。

 

 

お寺の入口にあたる赤門に建てられている石碑ですが、「百番観世音霊場」と刻んであります。脇には、昭和十年十月建之とありあますので、それほど古い物ではないですね。

 

更に、境内奥の金堂の脇にも、

 

 

ふたつの石碑があり、右手は赤門と同形状で、「百番観世音霊場登口」とあります。ここが霊場の入口のようです。

しかし、この先の山道は称名寺市民の森といわれるハイキングコースでてっぺんに廃墟の八角堂があるきりなのです。

 

というわけで、この百番観世音とは、なんなんだろう?

時間が出来たので、ちょっと調査してみました。

 

 

  どうやって調べたのか

 

手掛かりは、石碑にあった昭和10年10月、この月の出来事を調べれば何かわかるかも!

ということで、当時の地元の新聞「横浜貿易新報」をあたってみました。

そしたら、案の定記事が見つかりました。

 

どうやら、今から87年前の昭和10年10月20日。金沢区の古刹称名寺において一大イベントが開催されていたのです。

それは・・・

 

 北条実時公660年祭 称名寺開山式です。

 

地元に別荘をもつ貴族院議員大橋氏によって、称名寺境内6万坪に観音堂や100番札所が整備され一般に開放されたのです。当時の新聞には「民衆信仰の大霊場、来る20日盛大な開山式」と紹介されています。

これは称名寺開基の北条実時公の没後660年祭に合わせたもので、新たな観光スポット誕生に地元金沢町も諸手を挙げて歓迎していたようです。

 

また、灯台下暗しで、先ほどの登口の石碑の隣の石碑に由来が書いてあったのです。

この碑には「百番観音並観音堂建設之碑」とあるのですが、何分格調高い漢文で書かれているので理解できる方は読んで見て下さい。

 

山頂の八角観音堂はこの時に建造されたものなんですね。

そして、背後の三つの山、金沢山に西国三十三番、稲荷山に坂東三十三番、日向山に秩父三十四番を配置し、計100番の札所巡礼ができるようにしたのが、百番観世音の正体だったのです。

しかし、肝心の百観音はどこに行ったのか。

 

  金沢山の山頂に築かれた八角観音堂。

 

 

 

称名寺の至宝「身代観音」を祀ったお堂で鉄筋コンクリート製。地下には納骨堂が設けられていました。(其の昔、大津波に襲われた時に漁民の身代わりになって海中に没し、33年目に称名寺の海岸に現れたという伝説があります。)

現在、眺望を誇ったこの場所は草木ぼうぼう、観音堂も中はもぬけの殻、地下納骨堂も閉鎖されています。もちろん老朽化で危険なため立入禁止です。

 

 

  百観音発見!

 

これは分からないですね。

先ほどの登り口から登ると山頂部に八角堂があるのですが、この山道の途中の脇、3カ所にそれぞれ観音像が集められていました。

何れも藪の中です。

 

 

 

 

  観世音百番札所 観音石像

 

側面に「昭和十乙亥年十月 寄進人 東京 大橋新太郎氏」とあります。

このような観音像が、それぞれの山道に配置されていたのです。石像には札所名と御詠歌が刻まれていました。

 

 

坂東三十三番札所の観音像群。一番だけ大きいですね。

 

 

西国三十三番札所の観音像群。

 

 

秩父三十四番札所の観音像群。

 

ということで、かっては山道沿いに配されていた観音像は札所ごとに一ヵ所に集められ、しかも、見つからないように置かれています。傷んでいる石像もありました。

 

 

山道の途中には、慈母観音像が残されています。

 

 

また、何者かの台座も残されています。石の祠は何物かを撤去した後に載せ替えたもののようです。

 

なぜ、このような状況になったのか、そこはまだわからないのですが、これも時代の流れなんでしょうね。

 

 

  県下名勝史跡四十五佳撰

 

登口碑の近くにもう一つ石碑があります。

これは読みにくいのですが、ここにも大きく「稱名寺百観音」と刻まれています。

県下名勝史跡四十五佳撰といって、昭和10年に横浜貿易新報社が創業45周年記念に読者投票によって神奈川県下の名所旧跡のベスト45を選んだもので、選ばれた場所にはこのような顕彰碑が建てられたのです。

因みに、第1位は半原の石小屋で、現存していません。

結果は組織票に左右されたようで、今見てもオヤっという場所が多いです。

 

 

 

 

  北条実時公の廟所(お墓)です。

 

これも裏山にあります。

 

 

こちらが、実時公の墓石です。墓地内には金沢北条氏一門の五輪塔も並んでいます。

 

 

  北条顕時と金沢貞顕の墓

 

金沢文庫を拡充させたとされる二人の廟です。

顕時は実時の子供、貞顕は顕時の子供です。

 

貞顕とありますが、実は顕時公のお墓だそうです。

 

 

顕時とありますが、貞顕公のお墓だそうです。

発掘調査で逆なことが判明しました。

 

 

「鎌倉殿の13人」人気で、北条氏関連史跡に多くの人が関心を持つようになりました。

称名寺を訪れた際には、ぜひここまで見に行って下さい。

 

 

  最期に、当時の絵地図です。

 

 

昭和15年に湘南電気鉄道(京浜急行の前身)が発行した金沢文庫のガイド本の中の案内地図です。

参道沿いに観音像が配置されているのがよくわかります。これを見ると一カ所に集めるのも大変な作業であったろうと思います。

 

また、この時は金沢文庫(昭和5年開館。県営)は池の脇にあって、隧道の先(現在の金沢文庫の場所)には昭和塾という県営の青年修養道場があったのです。