「愛する」ことを求めていたのに、それが別なことにすり替わってしまう現実を体験する人は少なくないのではないでしょうか。

羊にはそんな風に思えてなりません。

それだけ愛する事はある意味で難しい事だと思うのです。

例えば、「わかる」と言う事は愛する事と近しい関係のような気がします。


「わかる」事は外の何かを自分の中に取り込んだり、同調してエネルギーを感じることのようにも思えます。

ある人を思う気持ちを、人は、その人にわかってもらいたいと強く望む傾向にあると思うのです。

わかってもらえたら、自分の「気持ち」のその波が相手の心の中に直接流れ込むかのように「通じる」のだと思います。

まるで電話をかけて相手が出ると会話のホットラインができるが如く「通じる」と言うことは気持ちのいい事なのだと思います。

誰かを愛してしまったならば、やはり通じたいと思うものです。
その場合にそれが厳密な意味で愛であろうとなかろうと、それほど関係はないのでしょう。
通じたからと言って、別に永遠が保証されるわけでもないのですが。とりあえずは満たされる事でしょう。


反対に、「片思い」は、とても辛いものです。告白していなければ、なおさらです。通じる事ができない状態をずっと耐えなくてはなりませんから。

しかし、時々、片思いでも構わない、そういった事を言う人がいます。
結局両思いにはなれないのですから、諦めの境地なのでしょうか、それとも、相手を尊重する気持ちなのでしょうか。あるいは境遇が邪魔をしているから、それ以上を望んでは相手を苦しめる事になってしまい自制心が働くからなのでしょうか。

なんらかの愛情を持ったが為に報われない場合は、それは苦しみに変わる事があります。逆に苦しくないなら愛しているとも言えないのでしょうか。
苦しみを尺度にその愛を計る、とても不思議な押し問答のような事が始まってしまいます。

そんな感じでシンプルな愛情も、複雑なものにいつか変化してしまうのかもしれません。


愛情とそれをわかってもらう事、わかる事とはまた別なものと割り切るべきなのか。


通じることの出来なかった愛情は、結局は何処に行ってしまうのでしょうか。落武者のようにどんどんと隠れながら流れていって最後は朽ち果てるか、辿り着いた何処かで新しい愛情を見つけるか。

こうして考えてくると愛情は、まるで爆弾のように危険であり破壊力も強いし、上手く収められなかったり、捨てられなかったりすると自分も周りも巻き込んでしまうかもしれない性質がありそうです。

愛情の危険性を知ると、人はそこから遠ざかろうとするかも知れません。

あるいは安定が果たす役割をとても大切なものだと認識するのかも知れません。

逆に、どんなに傷付いても新たな恋に挑み続ける事はむしろ尊敬される事になっています。

しかし、結婚の場合は何度も失敗すると不思議な事にそんなには尊敬を集めないでしょう。

恋の方がより純粋な気持ちだと考えられているのでしょうか。

この危険な愛情を巡って繰り広げられる心のドラマを、自分自身でうまくわかる事も愛情は必要とするものなのかも知れません。