避妊と不妊 

     

 

     結婚して1年。

     私も来年には30歳になる。妻も27歳だ。  

     妻との結婚生活に何の不満もない。

     よくやってくれている。満足だ。

     子供は早い方がいいが急ぎはしない。

     それにしても妻の避妊要求は徹底していた。

     丁度そのくらいのころからだったろうか、

     彼女は物憂げにソファーに、ベッドに

     寝ていることが多くなった。

     何もしたくないようだ。

     部屋の中もなんだか雑然としている。 

     そういえば彼女の顔からあんなに豊かだった笑顔が

     最近減っているような気がした。

     私が帰宅したというのに

     出迎えもしない。

     私の顔を見てもにこりともしない。

     むしろ私のことを避けているような気さえする。

     気にはなっていたが

     あえて何も言わずにいた。

     「夕食は?支度してないの?」

     窓の外をぼんやりと眺めたまま返事さえしない。

     「どうしたの?最近何かへんだよ。」

     「別にー。」

     彼女は気怠そうに起き上がり  

     冷蔵庫の中に作り置きしたものを温め

     ダラリダラリと夕飯の支度をした。

     そんな日が半月も続いただろうか、

     「どうしたの、ちゃんと話しなさい。  

     君、もしかして妊娠しているの?」

     「しているわけないでしょう。その逆よ。」

     彼女の話によると

     子供がなかなかできないことを

     心配する実母に

     避妊していることは伝えたが 

     念のため検査を受けるように促され2~3ヵ月前から

     通院していたという。

     検査の結果、彼女はかなり妊娠しにくい

     体質だということが分かったという。

     しかし全く妊娠できないという訳ではなく

     適切な治療をすれば妊娠のチャンスはあるそうだ。

     そのためには夫である私の協力が必要だとか。

     夫婦そろって来院するように言われたそうだ。

     「いずれは子供が欲しいでしょう?                             

     ねぇ、一緒に病院に行って欲しいの。」

     「もちろんだよ。」

     予約を取り二人で病院に行った。

     説明、問診の後私たちは個室に入るように言われた。

     私の精子を採取するようキットを渡された。

     まさかこんなところで、まさかこんなに急に。

     こんなこと私は全く予想していなかった。

     ただ説明を聞くだけだと思っていた。

     彼女の検査結果はすでに出ている。 

     更に私の検査結果も必要だという。

     彼女に問題があることが分かっているのに、

     なぜ私まで?不愉快だ。腹立たしい。

     私は男じゃないというのか。

     「私も手伝うからお願い。」

     妻に哀願されようやく気持ちが収まった。

     とはいってもブラインドが下りているものの

     明るい部屋。

     前戯も何もなく、心の高まりもないまま

     半強制的な命令的な

     射精を強いられてもそれは無理だ。

     時折看護師が顔を覗かせ「ゆっくりでいいですよ。」と

     声を掛けていく。

     その言葉さえ「さっさとやれ。」と聞こえる。

     ダメだ、どうしても出来ない。

     医者は日を改めてまた来るようにと言った。

     「ゴメン、嫌なことをさせてゴメン。」と

     妻は詫びた。

     「いいんだよ、君は不良品なんだからしかたがないよ。」

     「不良品?」 

     彼女はなぜか戸惑った表情を浮かべた。

     「不良品なの、私?」

     「そうだよ。君は不良品なんだよ。

     子供ができにくい体質なんだから  

     それは女として不良品ってことだよ。」

     「不良品だなんて酷いわ、酷すぎる。」

     しばらくの沈黙の後、

     「また来週来ましょう。

     私、急に赤ちゃんが欲しくなったの。

     あなたの子供が産みたいの。

     あなたが協力してくれるなら

     赤ちゃんができる可能性もあるって

     お医者様が言ってたもの。私、不良品じゃないから。 

     絶対赤ちゃんを産むから。

     私、不良品じゃないって証明してみせる。」

     彼女は人格が変わったかのように

     今までに聞いたこともない厳しく強い口調で言った。

     そしてその翌週2人で再院した。

     今日は初めからそのつもりだ。

     私だって自分の子供が欲しいし、

     彼女に私の子供を産ませてあげたい。

     そんなこと当たり前だ。

     半強制的な、命令的な精液採取なんて覚悟の上だ。

     少し時間はかかったがどうにか採取できた。

     しばらく間をおいて診察室に呼ばれた。

     「これを見てください。」

     医者はモニターに映った画像を見せた。

     「こちらが正常な人の精子の画像、

     こちらがご主人の精子の画像です。

     この画像をご覧になればお分かりだと思いますが。」

     医者は説明を始めた。

     どうやら私の精子は極端に数が少なく、奇形も多く、

     皆無ではないが誰かを妊娠させられる可能性は

     極めて少ないという。

     ましてや彼女も妊娠しにくい体質だ。

     妊娠させにくい男と妊娠しにくい女、

     そんな2人に子供なんてできるはずもない。

     落ち込む私たちに医者は

     「可能性がゼロという訳ではありません。  

     今はいろいろな治療法があります。頑張りましょう。」 

     と言ってデスクに向かって

     カルテを書き始めた。

     しかし医者のその言葉の裏には

     あなた方夫婦には子供はできませんよと言う

     ニュアンスが滲んでいるのを感じた。

     彼女もどうやらそれを感じていたらしい。

     「私のことを不良品って言ったけどあなただって

     不良品じゃないの。」

     彼女は憎しみのこもった目を私に向けた。

     それからの私たちのセックスは

     おざなりなものに代わった。

     いつも悩ましく小さな声で息も絶え絶えに

     喘いでくれた彼女はもういない。

     声も立てず、息も乱さず

     ただ淡々と身体を開くだけだ。

     ついこの間まではときめきだったセックスも

     今では子供を作るための

     単なる作業に代わった。

     このままでは私は種無しのレッテルを張られてしまう。

     それは男としての私のプライドが許さない。

     届けえ―、届けえー、私の精子、

     彼女の卵子に届けー。

     私はいつも心の中でそう叫びながら作業をした。

     そんな作業が始まって半年くらいたったころ

     医者は人工授精を勧めてきた。

     一通りの説明はあったと思うが

     私たちはお互いにもうすっかり疲れ切っていた。

     話の詳細なんてろくに覚えていない。

     お互いに無言で家まで帰った。

     「ねえ、どうする?どうしたいと思っているの?」   

     彼女は「もういいの。」と言って

     寝返りを打って私に背中を見せた。

     日曜日の遅い朝、どうやら彼女も目を覚ましたようだ。

     しばらくまどろんでいるようだったが

     やがて起き上がりいつものように茶色い髪留めで

     無造作に髪をまとめた。

     膝を抱え込み何かを考えているようだった。

     しばらくすると自分の両方の手のひらで

     自分の両方の頬をパンパンと挟むように叩いた。

     「よし、行こう。」

     彼女はそう言ってベッドを出た。

     朝食の準備ができたら呼びに来るだろう。

     そう思いながら私はまた少しまどろんだ。     

     その時おぼろげな意識の中で 

     玄関のドアが開き

     静かに締まる音を微かに聞いた。

     テーブルの上には彼女の欄だけ記入済みの 

     離婚届が置いてあった。

     何度も実家に迎えに行ったが

     「会いたくない。」の伝言だけで

     顔さえ見せることはなかった。

     「娘の不妊症のことは

     私どもも知りませんでした。

     そうと知っていれば縁談など    

     ご遠慮いたしましたのに。

     本当に申し訳ないことをいたしました。」

     義母から丁寧な詫びを受けた。

     「離婚届けは

     いつ提出してもらっても構わないと申しています。

     つきましては近々あの子の荷物を

     引き取らせていただきたいと思っています。」

     穏やかな口調ながらも

     きつい言葉だった。

     すでには母とは話し合いが出来ているという。

     私は何とか彼女に

     子供を産ませてやりたいと思った。

     やっぱり不妊治療を続けよう、そう思い

     私は一人で病院を訪ねた。

     「ご主人も奥様も非常に妊娠の確率が低く、

     お二人の間に子供ができる可能性は

     極めて低いと思われます。」

     医者の言葉は残酷ではあったが

     それが現実なのだと悟った。

     私は子供が持てないのだと実感した。

     しかし医者は

     「どうしても子供が欲しければ

     医学的な治療もありますが

     パートナーを変えるという方法もありますよ。」と

     独り言のように呟いた。

     なるほど、パートナーを変えるかぁ。

     それもありだと思った。

     その瞬間私の頭の中には菜々子がいた。

     パートナーを変える。 

     私の子供を産めるパートナー、それは菜々子だ。

     菜々子と最後に会ったとき

     「私、妊娠しているかもしれないの。」と言った。

     あの時菜々子は本当に妊娠していたのだろうか?

     していなかったのだろうか?

     もし妊娠していたとしたら

     その子はどうなったのだろう?

     もしかしたらすでにこの世の中に

     私の子供がいるのかもしれない。

     だとすればすぐに迎えに行こう。

     私は種無しのレッテルを張られないで済む。

     私は体の中に物凄い喜びが湧いてくるのを感じた。

     妻の実家には今日離婚届を提出したこと、

     そして荷物はいつ引き取りに来ても

     構わないことを早々に伝えた。

     業者の手で運び出された彼女の荷物。

     ぽっかりと空いたその空間に

     私はもう何も虚しさを感じることはなかった。

     彼女とは顔を合わせないままの

     離婚となったが全く後悔はなかった。