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         「初夜」

     私は今から始まろうとしているシンプルで華やかで

     そして神聖なその儀式にかなり興奮していた。

     しかしそんな気持ちなどおくびにも出さず

     冷静さを装った。

     「君、こっちに来なさい。」

     私は妻をベッドに呼んだ。

     妻は少し戸惑い気味に後ずさりした。

     それがまた初々しく思えた。

     やがて意を喫したかのように

     2~3度瞬きをし、

     そして大きく息を吸って

     私の横に入ってきた。

     私はこれから長い時を一緒に過ごすであろう妻に

     深い思いを込めてキスをした。

     しかし妻は身を固くしてそれを拒み、

     そしてあからさまに横を向いた。

     23歳。このご時世、

     もちろん処女だなんて思っていないが

     男慣れしていないそのしぐさの

     一つ一つに可愛らしさを感じる。

         20数回の見合いを経て 出会った結婚相手だ。

     やっと出会えたこの人を一生愛そう。

     私はそう思った。

     しかし次の瞬間、

     妻はシーツの端で唇と口の中を拭い

     「汚い。やめて。」と言った。

     汚い?初夜の夫である私のキスが

     汚いというのか?

     「だからそうことはしないって

     条件だったでしょう?

     レスが条件だったでしょう?約束だったでしょう?

     嫌なの、私はダンスを続けたいの。

     嫌なの。」妻は叫んだ。

     結婚したのにレスだなんて。

     私は訳が分からない。

     そんな条件、承諾した覚えはない。

     妻は結婚後もダンスを続けたいという

     強い希望を持っていた。

     仲人からもダンスを優先させてくれと言われていた。

     私もダンスくらいならと快諾した。

     それはそうなのだが。

     妻は少女のままの身体でいたいという。

     妻が憧れているているダンサーが

     男を知った身体は

     筋肉の質も型も少女から女に変わり

     ダンサーとしての価値が落ちるという考え方らしく

     そのダンサー自身も結婚はしているが

     レスを貫いているという。

     妻もその考え方の影響を受け結婚はしない、

     あるいは結婚しても 

     憧れのそのダンサーのようにレス婚でいる。

     そういう考え方になったらしい。

     そこへ舞い込んできたのが

     私との見合いだったようだ。

     「どうして僕と結婚しようと思ったの?」

     「条件が良かったからよ。

     お見合い結婚なんて条件探しでしょう?

     都合の良い条件の人を探すってことでしょう?

     レスを認めてくれる人なんて

     そうそういないもの。

     レスは結婚の条件だったでしょう、そうよね。

     お仲人さんから聞いているでしょう?」

     妻はそう言った。

     仲人が言っていたダンス優先という言葉の裏には

     そう意味があったということが今ようやく分かった。

     そんな意味があるなんてとても汲み取れないよ。

     そんなこと事前にわかっていたら

     この人とは結婚なんかしなかった。

     「あなたこそどうして私と結婚しようと思ったの?

     父の肩書?ご両親と同居の件?

     それとも我が家の財産?」

     私は何も答えられなかった。

     しかしもう結婚式を挙げてしまった。

     多くの人を招いてお披露目もしてしまった。

     今更どうにもならないよ。一体どうしろ言うのだ。

     妻はベッドを出てソファーに移った。

     そしてさっきまで振りまいていた笑顔は

     泣き顔に変わっていた。

     絶望と後悔、私の方こそ泣きたいよ。 

     「もうこれ以上旅行を続けるのは無理だ。明日、帰るよ。」

     私たちはベッドとソファーに分かれて

     最初で最後の夜を過ごした。

     私たちは新婚旅行をたった1日で切り上げ

     次の日、帰路に就いた。

     妻は夕刻の空港からそのまま実家に戻った。

     虚しさと何だかわからない

     何かを掻き毟りたくなるくらいの怒り。

     その怒りがどうしても収まらない。

     そうだ、菜々子だ。

     とっさに菜々子の顔が浮かんだ。

     菜々子ならきっと私のこんなやるせない気持ちを

     癒してくれるはずだ。

     会いたい、菜々子に会いたい。

     今はそれしかなかった。

     この虚しい気持ちと

     どこにもぶつけようのない怒りを

     癒してくれるのは

     菜々子しかいないと思った。

     菜々子と別れて半年くらいになるか。

     でも菜々子は必ず待っていてくれずはずだ。

     私には確信があった。

     私が乗ったタクシーが菜々子の住む街に近づいてきた。

     懐かしい街並みだ。

     以前は毎週この街に来て毎週菜々子を抱いた。

     1度は見捨てたその風景も今ではすべてが懐かしい。

     果たして菜々子はい居るのか?

     居た。

     半分開いた窓に

     あの水色のカーテンが掛かっているのが見える。

     菜々子だ、あの水色のカーテンの中に菜々子がいる。

     私はタクシーから飛び出した。

     しかしさすがに以前のように

     平気な顔をしてその2階に上がっていく勇気はない。

     「菜々子―、菜々子ー。」

     その声が聞こえたのか

     窓の隙間から菜々子が顔を見せ目が合った。

     菜々子は私を見つめたまま一瞬動かない。

     そして「どうしたの?ちょっと待ってて。」と

     カーテンの奥に姿を消した。

     アパートの階段を駆け下りてくる

     菜々子の足音が聞こえる。  

     私はいてもたまらずその階段を上がろうとして

     足が半分宙に浮き上がった。

     しかし菜々子の方が一瞬早く1階にたどり着いた。

     と同時に2階に上がるその階段を照らす明かりを消した。

     「どうしたのー。」

     菜々子は明るい笑顔で迎えてくれた。

     しかし階段下で立ち話だ。

     私は同じ時間を過ごした菜々子のあの部屋に入りたい。 

     どうしても入りたい。そして菜々子を抱きたい。 

     私のこのやるせない気持ちを菜々子で癒したい。

     しかしどんなに言葉を振ってみても 

     「ふーん、そうなんだぁ。」 「ふーん、いいんじゃない。」と

     繰り返すばかりで ちっと話にも興味を示さない。

     そして菜々子は決して私を部屋の中に

     招き入れようとはしなかった。

     そして何の脈絡もなく唐突に

     「サヨナラ」と言った。

   

 


     「航ちゃん、あなたどうしたの。

     何度電話をしても出ないし、帰って来ないし。

     心配してたのよ。」

     話の内容は妻の両親からすでに聞いているという。

     私も大筋を説明した。

     母の顔にも絶望と後悔とそして怒りが滲んでいた。

     「航ちゃんごめんなさいね。 

     いい条件の人だと思ったのにね。

     まさかこんなことになるなんて。

     私があの人がいいなんて言ったばかりに。

     本当にごめんなさい。」

     母はうろたえていた。

     「母さんのせいじゃないよ。

     最終的に決めたのは僕なんだから。

     僕が選んだんだから。」

     そう言うしかなかった。

     私は妻に2度と会う気はない。

     おそらく妻もそうだろう。

     翌日には仲人と

     両家の両親だけでの話し合いになった。

     言った言わない、

     そんなこと常識だ、そんな常識聞いたことがない。

     相当の修羅場だったらしいが

     結局はすべてを解消することで話がついた。

     わずか10日前に運ばれてきた妻の嫁入り道具は

     業者の手で運び出された。

     ぽっかりと空いたその空間に

     とてつもない虚しさを感じる。

     虚しい。虚しすぎる。

     そしてまたどこにもぶつけようのない怒りが

     こみ上げてきた。

     しかし私たちのたった1つの救いは

     まだ入籍していないということだった。 

     私の戸籍は汚れていない。良かった。 

     私は安堵した。

     しかし、このとてつもなく大きな

     心の穴はどうしようもない。

     菜々子だ。やっぱり菜々子だ。

     「サヨナラ」と言われた屈辱も忘れ

     性懲りもなく何度か菜々子のアパートに行った。

     しかしいつも留守のようだ。

     夜だというのに明かりが点いていない。

     4度目か5度目の時だったろうか、

     やっと明かりが点いていた。

     しかしやっぱり外で立ち話だ。

     「僕ね、何度もここに来たんだよ。

     でもいつも君はいなかった。」

     「今私がいる部署、出張が多いの。

     女の子でも出張がバンバン入るの。

     泊りの出張もあるし 日帰り出張もあるし、     

     月のうち半分は出張に出ているの。 

     化粧品会社なんだから男だ女だなんて

     そんなこと言ってられないのよ。」

     「ドサ廻りしているんだね。」

     菜々子はなぜかふっと小さな溜息をついて

     しばらく黒い空を見上げていた。

     そして「相変わらずね。サヨナラ。」と言った。

     結婚を失い、どうやら菜々子も離れて

     行ってしまったようだ。

     なんだかすべてが終わったような気がした。 

     菜々子だけはいつまでも

     私を待っていてくれるはずだったのに。

     わずか半年の間に

     私はすべてを失ったというのか。 

     私は何を間違っていたというのか。 

     絶望だ。

     菜々子は私を薄暗い闇の中に突き落とした。

     

 


     「ねぇ、航ちゃん、あなたお見合いしてみる気ない?

     いくつか話が来ているのよ。」

     母のその言葉に

     私は再びあのステージを照らす眩しいライトを見た。

     その瞬間私の脳は

     完全にリセットされていた。

     もう2度と同じ轍は踏むまい。

        私は以前にも増して冷静に、冷淡に、

     そして慎重に相手を吟味した。

     2度目の見合いももう10回目になったのか、

     20回目になったのか、

     いちいち数えてはいない。

     そんなことどうでも良かった。

     納得のいく人に出会えるまで

     何回でも見合いをする覚悟でいた。

     そんな折、何年かぶりの

     同窓会から帰ってきた母が

           なぜか興奮気味だ。

     当時仲が良かった友達の娘が

     結婚相手を探しているという。

     「夏樹ちゃんっていうの。

     今日お母さんを迎えに来ていたんだけれどね、

     明るくってとってもいいお嬢さんなの。

     一度会ってみない?」

     見合いが1つ増えたと思えば同じことだ。

     私はその人と会ってみることにした。

     母親同士が同級生ということもあり

     今までのどの見合いとも異なり

     すぐに打ち解けた。

     話しやすい人だ。車やゴルフの趣味も合う。

     服装のセンスは今一だが

     そんなことはこれから少しずつ

     教育してけばいい。

     よし、この人にしよう。 この人と結婚しよう。

     私は直感でそう思った。

     それからの流れは速かった。

     何度かのデートを重ね、

     お互いの家を行き来し、

     2ヵ月後には結納、そのひと月後には

     結婚が決まった。

     私も嬉しかったし

     何より母の喜びようは一入だった。

     長い時間、相当なエネルギーを費やしての

     やっと手に入れた結婚だ。 

     私にとっては2度目の結婚式になるが

     そのことは先方にきちんと伝えてあるし、

     了解をもらっている。

     今度こそが本当の結婚だ。

     君こそが私の妻になる人だ。

     私は厳粛な気持ちで妻を迎えようと思った。

     結婚式も新婚旅行も

     あの忌まわしい記憶を消すために

     より一層盛大なものにした。

     彼女の半端ない喜びようが嬉しい。

     一生この人を愛そう、一生この人を守ろう、 

     そう強く思った。

     私は今まで彼女を

     ホテルに誘うことはしなかった。

     菜々子と別れてから1年も

     レスが続いている。

     もう限界をはるかに超えている。

     しかし私は決して彼女を誘わなかった。

     真面目で誠実な良い青年を演じた。

     初夜。

     「君、こっちに来なさい。」

     私は妻をベッドに呼んだ。

     彼女は「うん。」と小さく頷いて

     私の横に入ってきた。

     「あなたと結婚してよかった。

     本当によかった。ありがとう。」

     彼女の言葉に私は彼女のすべてを
         愛そうと思った。

     前回の初夜の苦い思い出に 

     私は少し臆病になっていた。

     もしも、もしもまた同じことが起こったら、

     私は怖かった。

     もうあんな思いは2度としたくない。

     しかし彼女は 

     私からの初夜を告げるキスを

     十分に受け入れてくれ安堵した。 

     しかし次の瞬間

     「ねえ、ゴムはどこ?」と彼女は言った。

     「ゴム?」

     「用意してあるんでしょう?

     えっ、用意してないの?

     まさかそのままするつもり?

     そのままなんていや。い絶対いや。

     妊娠なんかしたらいやだわ。」

     彼女はしばらく2人の時間を楽しみたい、

     子供はしばらく待って欲しいと言っていた。

     私もそれは構わないのだが

     初夜だというのにゴムを着けろというのか。 

     夫婦としての初めての行為だというのに

     ゴムを着けろというのか。

     しかし私は自分でも不思議なほど冷静だった。

     なぜか虚しさも怒りも湧いてこない。

     彼女はベッドを飛び出して

     ソファーに転がり込んだ。

     あの時と同じだ。

     あの時と同じ光景を2度も見ることになるなんて。 

     「明日用意するよ。」

     私たちはベッドとソファーに分かれて

     最初の夜を過ごした。

     彼女で良かったのだろうか、

     結婚相手は本当に

     彼女で良かったのだろうか?

     私の中に小さな疑問が生まれた。

     こうして私たちの新婚生活は始まった。