前回、三ノ輪の浄閑寺にまつわる物語を書きましたがその続きです。


浄閑寺と言えば投げ込み寺として有名です。身寄りのない遊女や、吉原で働いていた無縁になった男性なども葬り供養されていたそうです。「生きては苦界、死しては浄閑寺」と言われたお寺ですが、過去帳によれば新吉原関係者の2万5千人を供養していると言います。苦しみながら生きた人たちが最後に安堵して眠れる場所がここ浄閑寺であったのでしょうね

その遊女たちを供養しているのが新吉原総霊塔で、それまであった新吉原無縁墓を昭和4年に改宗したもので、吉原哀史を今に伝えています。華やかな面もあったのでしょうが、悲しい歴史も刻まれています。それらを忘れないためにもここを訪問して考えてみるのも良いでしょうね。

明治から昭和にかけて活躍した小説家、永井荷風は遊女たちを憐れみ、また浄閑寺の情景を好んで幾度も訪れている。亡くなって雑司ケ谷霊園に葬られましたが、生前は浄閑寺に葬られたいとまで言っていたようで、そのような縁があって、昭和38年に荷風の詩碑と筆塚が建立されました。

明治31年に、5日後に年期をあけて、男と所帯を持つことに胸ふくらませていた22歳の角海老楼の若柴は、たまたまやってきた客の凶刃により非業の死を遂げます。男は他の遊女と心中をしようと吉原にやってきますが、その遊女がほかの客を取っていたことに腹を立て、たまたま目についた角海老楼に入り、若柴の首に切りつけたものでした。それを憐れんだ人達によって本堂左方に立派な墓がたてられた。これはまだ良い方で、多くの遊女は墓もなく、あっても小さな墓石が散乱していたと言います

新比翼塚が浄閑寺にはあります。比翼塚とは、愛し合って死んだ者、情死、心中した男女を祀ったものを比翼塚と言い、江戸時代に幾つか建立されています。明治18年10月1日に新吉原の品川楼で、内務省の警部補、谷豊栄と遊女盛絲が心中した事件は、一世を風靡し、芝居にもなったという。その二人を祀ったのが新比翼塚で、江戸時代の比翼塚に対し、新比翼塚と呼ばれたのかもしれません?

江戸時代の心中は罪で、不義密通の罪人と同じく扱われ、死んだ場合は埋葬、供養を禁じ、片方が生き残った場合は死罪、二人とも死にきれなかった場合は非人身分に落とす等ということが行われていました。吉原で情死、心中した男女は無縁として浄閑寺に葬られましたが、罪人として扱われることになります。先日、荒川区のふるさと文化館の館長さんからお話を聞く機会があったのですが、罪人として扱われるはずの心中した男女が、過去帳には別記されるべきところを、心中した二人の名前が列記されていたり。住職のせめてもの配慮ではなかったのではないかということです

時間切れなのでまた続きを書きます