北千住と南千住はどう違うのか???

他の地域の方にはわかりづらいと思いますので解説していきたいと思います

まず簡単に言いますと北千住は足立区、南千住は荒川区で隅田川を挟んで違う区にあります

一口に「千住」と言いますが、千住という地域は二つの区にまたがった地域になります

一般的に千住といえば北千住を指し、南千住は南千住です。

北千住は足立郡に属し、南千住は豊島郡に属していました。

よく混同されますが、隅田川をはさんで微妙な文化の違いがあります。

もんじゃといえば月島なんて誤解している人も多いと思いますが、南千住ももんじゃが盛んで、各家庭にもんじゃのヘラ(ハガシ)があるぐらいです。

南千住ではもんじゃ焼はもんじゃと呼びますが、千住では「ぼった」と呼んだりします。似たような地域でも色々な違いがあって面白いものです


千住の地名の由来について書こうと思います。

有力な説は、この地を治めた新井図書政次が1327年に荒川(現在の隅田川です)で千手観音を拾い、嫡子の新井兵部政勝が勝専寺に納めたことにより千手という地名が着いたという説。

他には室町幕府8代将軍足利義政の愛妾千寿の出身地であった。千葉氏が治めていたので、千葉住と呼んでいたのが、訛って千住になったなど、諸説あって定かではない。

千住が栄えるようになったのは、日光道中の第一の宿場になったことから

千住宿は、現在の北千住が千住北組、千住中組、隅田川を越えて現在の南千住が千住南組と呼ばれ、明治に入って正式な地名になり、千住北組、千住中組と周辺町村が合併して千住町に、千住南組は周辺町村と合併して南千住町になりました。

更にのち、千住町は周辺町村と合併し足立区に、南千住町も周辺町村と合併して荒川区になりました

こうして、北千住と南千住が成立していきました

南千住は実は古い歴史があります。江戸時代の日光道中以前の奥州街道は現在の日光街道ルートではなく、いまの白髭橋辺りを通って奥羽に向かっていました。現在、南千住の中に取り込まれて地名が消失してしまった「石浜」など中世以前からの地名で、奥州街道が渡し船で隅田川を越える交通の要衝でした

そこには石浜城があり、江戸氏の一族が城を構えていました。室町時代には武蔵千葉氏の居城で豊臣秀吉の小田原攻めで廃城になるまで続きました。源頼朝が江戸に入った時も、源義経が奥州に向かった時もここからだったと思われます

古くから開けた土地でありましたが、江戸時代に入ると奥州に向かう街道は現在の日光街道に付け替えられました。現在の南千住辺りには中村町、小塚原町といった街が出来上がっていきます。足立区側の千住宿が拡張してゆき、千住大橋を越えた中村町、小塚原町が千住下組とか千住南組と呼ばれるようになり南千住となっていきます

南千住が中世以前からの歴史がある土地であったことがおわかりいただけたでしょうか

南千住ってどんなところ

北千住である「千住宿」は日光、奥州道中第一番目の宿場町であり、江戸ではありません

対岸の南千住は江戸の北限、末端になります。

江戸の末端には市街地には置けなくなった小塚原の刑場や、遊郭である吉原などが移転してきます。それに伴う江戸時代の史跡、寺社も多くあります

隅田川に近いという水運の良さに着目されて明治時代以降は大工場が建設されて日本の近代化に貢献しました。日本の羊毛工業、段ボール紙製造、近代下水処理などはこの地が発祥の地になっています

江戸の文化を受け継ぎながら、独自の文化も発展させて祭りや行事を現在に伝えています。勇壮な天王祭は都内有数です。伝統工芸なども多いですね。下町らしさを残し、路地に人々の息遣いを感じられる温かさがあります。レトロムード、昭和の名残もありますし、都電がゆっくり走る姿に癒しを感じたりもします

南千住駅の反対側の汐入地区は都内有数の大規模再開発でマンション群が連なるようになりました。南千住でも昔ながらの地域と再開発地域の対比を見比べてみるのも面白いかもしれません。また、街づくりに興味がある人は新旧の街がどう融合していくか考えていくのも面白いかもしれませんね

南千住は見どころ沢山です


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