記憶の引き出しが開くとき | tokyoarukiのブログ

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東京町歩きと読書の備忘録です。
東京の城東を中心に、歴史を学びながら歩いて・・・・・のはずが、香川県にお引越し。

突拍子もない海外ネタなど織り込みながら、高松を散策してまいります。

気まぐれかつ浅学ではありますが、
よろしくお付き合いください。

私は記憶力が低い。と言っても、教科書の内容などを覚えるのは案外得意で、学校の成績はそう悪くなかった(ぷぷっ、自慢しとるニヤニヤ)。覚えられないのは、日々の体験についての記憶だ。


幼い頃から引っ越しばかりしているから「記憶の上書き」癖がついたせいだろうかとも思うが、同じ条件の姉はそうでもないから、単純に個性なんだろう。


でも、こんな私でもたまに、記憶の引き出しがふっと開く時がある。




12月3日、小豆島に出かけた。土庄港で車を借りて、エンジェルロードから寒霞渓、二十四の瞳映画村、オリーブ公園を回る、これぞ「小豆島の王道観光」ルートだ(ろうか?)

 

▲干潮にだけ繋がるエンジェルロード

 

▲地形の妙が美しい寒霞渓

 


寒霞渓から映画村に回る途中でちょうどお昼時になり、「醤油記念館というのがあるらしいが、食べるところがあるに違いない」とふらっと立ち寄った。

 

 

 

 

 


期待した昼食にはありつけず、鼻腔に広がる香ばしいモロミの匂いと醤油ソフトクリームが気になったが、とりあえず空腹を我慢して、記念館に入ってみた。

 

 

 

 

 

 

 


小豆島は江戸時代から醤油作りが盛んだった。
その昔は塩作りをしていたものが、各地で塩が作られるようになると「塩を使った新しい産業を!」と考えて、醤油作りが始まったらしい。
 

 

 

瀬戸内海はかつてより海の男たちが水軍として活躍していた場所だ。豊臣秀吉朝鮮出兵などで彼らを重宝した。

平和な江戸期になると、船の操縦に長けた男たちはその特性を生かして、天下の台所大阪と全国を結ぶ海運業や船舶業で財を成した。

 


津々浦々に船を動かす彼らは、情報のアンテナが鋭く、今でいうところのグローバルな視点も磨かれていた。



だから、塩の供給地が増えたことにいち早く気が付いて、醤油作りに乗り出したというわけだ。



記念館では、そんなこんなの歴史や昔の醤油作りの工程などを見ることができるのだか、ある展示品で、私の記憶の引き出しがふわっと開いたんだ。



大福帳
江戸の商売人たちがつけていた帳簿である。

 

 


私は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島よりずっと小さな島の生まれだ。

当時の我が家はとても貧乏だったのだが、村に一つ年長のみっちゃんという友達が居て、みんなから「大福のみっちゃん」と呼ばれていた。


苗字は「大福」ではなかったのだけど、皆その家のことを「大福」と呼んでいた。みっちゃんは丸顔の福相で、可愛いワンピースをよく着ていて、他の島の子とは少し違って見えた。
学校にも上がっていない年齢の私は、自分の家が貧しいかどうかなんて一才頓着していなかったのだが、一度みっちゃんちに遊びに行ったら、広い上に自分の家にはないような家具が沢山あって、大層驚いた記憶がある。
その記憶の引き出しがいきなり開いたのだ。


今まで大福餅なら何度も食べたことがあるのだけど、その時は思い出さなかったのになぜだろう。
瀬戸内海の島の空気のせいだろうか。


みっちゃんちが「大福」と呼ばれていたのは、みっちゃんが丸顔だからではなくて、もちろん、村で一番裕福な家だったからだ。少し成長してから、親に「大福は船の仕事で随分儲けたんだよ」と教えられた。


瀬戸内海の島々には、そういう「大福さん」がそこそこいるのかもしれない。


今、目の前にあるのは「大福帳」だけど、きっと、こんな風に熱心に帳簿をつけていたマルキン醤油のご先祖様も小豆島の「大福さん」に違いない。

 

 

 

ところで、「大福帳」というのは、日本橋室町の紙屋鍵屋清兵衛が商売繁盛の願掛けの意味合いも含めて売り出したのが始まりとか。大福帳のことを、ここでは「宝帳」と呼んでいたようだ。「太神丸」というのが、所有していた船の名だろう。
マルキンご先祖が大福帳(宝帳)を付ける姿を想像すると、時代劇のワンシーンのようで楽しい。


結局、この後、「二十四の瞳映画村」まで車を走らせて遅いお昼を食べたが、この映画村でもまた、予想以上に癒される景色が私たちを迎えてくれた。

 

 

映画撮影の為に作られた島の学校

 

 

 

 

私は小学校入学とともに本土(と言っても四国。瀬戸内の島からすると四国が本土なんだよウインク)に出てしまったけれど、こんな学校なら絶対通いたかった。島生まれのせいか、海の音が大好きだ。幼い頃に布団の中で聞いた波の音が忘れられない。

 

 

海の音を聞きながら、静かな海を眺めながらの授業を考えると心が踊る。心はもうすっかり女先生の教え子だ。

 

 

 

 

 

実際、私が本土でお世話になった小1時の担任は、優しくて厳しくて、まるで「二十四の瞳」の女先生だった。それはそれですごく幸運だったと思う。

大西先生、元気かなぁ。。。

 

 

 

 

小豆島の旅は、錆びた私の記憶の引き出しを一つ、また一つと、優しく開いて、そして、幸せな空想の世界へと誘ってくれる。

 

 

温かな記憶のベールに心がふわっと包まれて、素直だった幼い頃に戻れるような、そんな1日だった。

 

 

 

▼すっかり子供の心に戻って、流行に乗る(箒に乗る)60代夫婦笑い泣き(オリーブ公園のギリシャ風車)

 

 

▼映画村でいただいたのは、カリカリ豚ともろみ味の醤丼。揚げパンメインの給食メニューなんてのも、小学生の気持ちに戻れそう。