お寺のリノベーションについて考える | tokyoarukiのブログ

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東京町歩きと読書の備忘録です。
東京の城東を中心に、歴史を学びながら歩いて・・・・・のはずが、香川県にお引越し。

突拍子もない海外ネタなど織り込みながら、高松を散策してまいります。

気まぐれかつ浅学ではありますが、
よろしくお付き合いください。

 

 

 

法明寺の空間が程よく古色然として落ち着くと思ったのだけど、東京大空襲で焼失してしまった堂宇戦後に再興したものだという。

 

本堂が昭和37年、鐘楼・山門は昭和43年だから築50年超だ。なるほど、建物としての風格が出てくるころか。

再興当時を知らないが、在りし日のままを再現し、今、見る者の心を落ち着かせる。

 

 

 

 

 

 

東京都内の寺社仏閣を訪ね歩いていると、イメージとは程遠いビル建築に出くわすことがある。

 

 

 

寺社仏閣イコール古色蒼然というこちらの勝手な思い込みだから余計なお世話に違いない。

 

 

 

 

かくいう当方父母の眠る寺もそんな今どきの建物だし、お墓はマンション式だし、けれど、すばらしい読経を上げてくれた。

だから、とやかく言うつもりはない

 

 

 

 

とにかく建物の老朽化諸事情で、いろんなリノベーションあるいは再建を施されたお寺があるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

2か月ほど前に訪ねた瑞聖寺(瑞聖禅寺)は、中でも特異なリノベ例として強く印象に残っている。

 

 

 

 

 

瑞聖寺ずいしょうじ

黄檗宗・隠元の弟子木庵和尚萬福寺第2世) によって開かれた 江戸で最初黄檗宗寺院

 

 

 

 

江戸名所図会(後述)にも古地図にも、その名前を見ることができる。

 

▼貞享4年(1687)「ゑ入江戸大絵図」にある瑞聖寺

(国会図書館デジタルコレクションより)

 

 

 

味のある惣門をくぐって境内に入る。

 

 

 

 

 

 

創建(寛文10年1670)時の伽藍は2度の大火に見舞われ、現在の本堂(大雄宝殿)は宝暦7年(1757)に再建されたもの。

 

 

 

江戸期の貴重な仏堂建築として、重要文化財に指定されている。

 

 

円い窓魚鼓黄檗宗寺院の特徴がある(らしい)。

(時を告げる魚形の鳴らし物は開梆カイパンともいって、隠元が日本にもたらし、木魚の原型となったそうだよ)

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、境内は塵一つなく掃き清められ、庫裡へと続く空間には美しい水面が静かに広がり、空を深く映し込む

 

 

 

 


 

建築物と水盤との醸し出す空気感実に心地よい。

 

 

 

 

 

ばぁばの知る限りでは、インドのタージマハル東京国立博物館法隆寺宝物館も水面を活かした空間設計だ。

 

(wikiからお借りしました滝汗)

 

 

(東京国立博物館の法隆寺宝物館)

 

 

 

 

けれどここ瑞聖寺は、江戸期の建築物平成の庫裡・水盤という数百年の時を超えた新旧折衷の試みだ。

(庫裡・水盤は平成30年竣工)

 

 

 

モダンな形状の水盤と江戸期から続く本堂とが違和感なく馴染んで、なんと美しいことだろう。

 

 

 

水面に映り込む高層建築さえ、一条の絵に描き加えられたスパイスのようだ。

 

 

 

庫裡・水盤のデザインはあの隈研吾氏。

 (彼の手になる寺社仏閣リノベは他にもいくつか見ることが出来る)

 

 

 

 

 

 

ばぁばは懐古趣味で、どちらかというと古いものが頑張って残っている姿に心動かされがちだが、

瑞聖寺の境内に立ち、寺社仏閣のリノベーションには様々なアプローチがあり、それぞれに良さがあるのだと思い知らされた。

 

 

 

 

歴史ある寺社仏閣といえども、住まう人あり利用する人あり、時代に応じた機能性安全性の面から手を加えざるを得ない。

人の縁地の縁を大切にしながらも様々な形で時に斬新に再建・リノベされる寺社仏閣

 

 

 

 

通りすがりの散歩人は、その工面工夫に尊敬感謝の気持ちを持って参拝したいと思う。

 

 

 

 

 

ところで、瑞聖寺の惣門はかつて東側の階段を下ったところにあったことが「江戸名所図会」の挿絵から伺える。

 

 

 

 

今は北(目黒通り)側が寺の表門となって、地下鉄白金台駅から徒歩1分だ。

 

 

 

 

 

 

かつての惣門前は桑原坂と呼ばれる緩い坂道で、坂の上には美しい日本庭園をもつ八芳園(結婚式場ほか)がある。

 

 

 

 

 

 

 

八芳園には江戸期に大久保彦左衛門の屋敷があり、後に薩摩藩屋敷を経て、明治期には「青天を衝け」の重要人物の一人渋沢喜作の手に渡ったという人の縁もついでに記しておこう。