今年夏に、パントマイムのミニライブにお邪魔し、イヨネスコの短編、「4人ばやし」を演出しました。その時パンフレット(パンフレットに長すぎて入らなかったので別紙折り込みになった)掲載分を紹介します。昨日、演劇つまんないとかぶつぶつ言いましたけど、狭い意味での「演劇」に興味ないという意味です。広い意味での「演劇」。これを私は一生やる所存です。

 

 

「四人ばやし」と作者イヨネスコについて

 

 

「何故、パントマイム舞踏で演劇なのか?」

今回上演するこの戯曲「四人ばやし」の作者の名前は、ウージェーヌ・イヨネスコ。

ルーマニアで生まれ、フランスで活躍した不条理演劇の作家だ。

イヨネスコの演劇の出発点は、彼曰く、子供の頃パリのリュクサンブール公園で見た、

人形芝居。

喋り、動き、棒で叩き合う、人形たち・・・。

それはまるで世界の怪奇と凶暴な真実を強調するかのように、単純化され、

戯画化された形で、イヨネスコ少年に示された。彼はこのとっぴで真実とは思えない

世界が、実は真実以上の真実であると感じたそうだ。

フィクションの真実は、日常の現実より深く、より本質的な意味が有る、と。

 

その為、イヨネスコの芝居にはリアルなストレートプレイではなく、誇張された

力技の演技が必要になる。つまり、イヨネスコを上演するに当たっては、心による

リアリティばかりを演者の楽しみとし、またそれが演劇の全てであると思い込んだ

一部の「役者」より、力技で演劇を行う事に躊躇を持たない、身体性の優れた

パフォーマーこそが適役だ。

 

これに、台詞を喋ることができる人間という条件も付く。

従ってどうしてもダンサーだけで上演する、というわけにもいかない。そもそも

踊らずとも無言で演劇を行うパントマイムの人間は、ダンサーより表現方法も、

精神状態も、当然芝居的である。

更に、この「様式性」が必然のイヨネスコ作品に、観客への視覚的サービス精神に溢れ、

様式美を大切にする舞☆夢☆踏の人間は大変適役であると私は考えた。

 

演者は、パントマイムの技術を使う箇所が少ない事に少々不満もあるようだったが、

ここは、「いつもと違うことをやる」というネクストウライブの趣旨に合わせ、普段は

行わない「台詞を喋る」ということに挑戦してもらった。

といっても、大事なのは身体表現だ。パントマイムの出番は少なくても、

舞☆夢☆踏で培われた身体能力、感性、表現力は存分に発揮していると思う。

 

 

「不条理演劇の先駆け、イヨネスコのナンセンスとは?」

不条理演劇を言えば、ベケットを思い浮かべる人は多いはずだ。イヨネスコはあの

「ゴドーを待ちながら」よりも少し早く不条理演劇を発表した人物である。

彼のいくつかの作品を通していえる彼のナンセンスとは、「反演劇」、

言語の解体である。

言語のコミュニケーションの不可能は、人間関係の解体であり、人の存在基盤が

崩壊されることによって、ナンセンスな状況が構築される。それは、人間の存在の

絶望的状況である。

これが、この短い「四人ばやし」という作品にシンプルにまとめられている。

個性を失った登場人物たちは、人形化されていく。

 

「これは、コメディなのか?」

これは、喜劇である。では喜劇性とは?異常性である。

劇的効果により、中盤悪夢が紡ぎだされ、それは終盤増殖し、グロテスクな幻想が

作り上げられる。

グロテスクなもの、それは絶対的コミックであるとイヨネスコは言う。

演者は、凶暴が転じて喜劇的になるまで、全力で演じなければならない。

(つまりこの作品は喜劇ではあるが、ワハハと声を出して笑うことを狙っては

いない。)

 

「演劇は娯楽でありたい」

この通り、イヨネスコはリアリズム演劇を拒否する作家である。

人形劇という彼の出発点、ルーツを考え合わせると、これは道化芝居で演じたい。

できる限り子供っぽく、大げさな、白痴的な方法で演じることが必要だ。

グロテスクと、カリカチュアを徹底させ、道化芝居のユーモアを加えて作品を創った。

私の創る作品は、大きな意味で娯楽でありたいと思う。

 

お客様には、「言葉による意味」ではなく、目で見て、楽しんで戴ければ幸いです。

 

作品情報

作者:ウージェーヌ・イヨネスコ(1909~1994)

代表作は、授業・禿の女歌手・椅子など

翻訳:塩瀬 宏

初演:1959年、イタリア。

この戯曲は最初、パタフィジック大学機関誌上に掲載された。