安房小湊は、日蓮誕生の地です。

 

小湊の誕生寺は、日蓮の生家跡に建立されたとされる寺院で、日蓮宗の名刹です。

 

現在、全国的にそれほど名が知られた存在ではありませんが、鴨川、或いは外房の観光名所の一つと言えます。

また、小湊鉄道は「小湊」の名が示す通り、もともとは小湊まで延伸する計画の路線であり、小湊誕生寺への参詣客を運ぶことも目的の一つとしていました。

 

 

この石碑は、三須安五郎という誕生寺に関わる信徒の功績をたたえた碑です。

内容は平易な漢文で書かれており、読み易い碑です。

他方、書は六朝風です。

プロの書家ではなく、茂原の藻原寺の僧の手によるもののようですが、なかなかの格調があるように思われます。

 

 

誕生寺は海に面したところにあり、境内のこの碑がある辺りからは、鄙びた漁港越しに穏やかな海を眺めることができます。

また、すぐ近くには、真鯛の群れで知られる鯛の浦があります。

 

 

【碑表】 (楷書)

三須安五郎翁碑

 

【本文】

三須安五郎翁碑

翁以安政六年十月二日生于香川縣引田町中川傳吉長男為神田平永町三須安

五郎之養子冐其姓娵長女新子舉二男三女昭和十年十一月三十日得病逝矣行

年七十七以本宗篤信家見知巡拜於身延山池上中山其他所有宗門之靈蹟奉納

多大金品就中出入小湊誕生寺常補佐現代貫首堂宇之修繕山内之改革境内之

莊嚴寺門之繁榮等一無所不盡心又為神田元搆搆元努法華経弘通之淨業更關

与幾多公軄東京第八地區劃整理委員東京地方裁判所管内借地權保護者委員

下谷神社氏子總代町内總代等不遑枚舉各本山感謝状賞状不可數也其功績著

大也可謂希有之篤行家也茲略記其梗概以而傳後世云爾

昭和十一年五月    東身延傳燈 權大僧正 雲山日我撰并書

 

  目について離れさりけり日をふれと 八十三翁  建立主東京神田須田町(以下略)

       在すか如く見えるおも影   日誘

                             西條村角田光治刻

 

【訓読】

三須安五郎翁碑。

三須安五郎翁の碑。

 

翁以安政六年十月二日生于香川縣引田町中川傳吉長男為神田平永町三須安五郎之養子冐其姓。娵長女新子舉二男三女。昭和十年十一月三十日得病逝矣。行年七十七。

翁、安政六年十月二日を以て香川縣引田町中川傳吉の長男に生れ、神田平永町三須安五郎の養子と為りて其の姓を冐す[1](よめ)の長女新子、二男三女を舉ぐ。昭和十年十一月三十日、病を得て逝す。行年七十七。

 

以本宗篤信家見知巡拜於身延山池上中山其他所有宗門之靈蹟奉納多大金品。就中出入小湊誕生寺常補佐現代貫首。堂宇之修繕山内之改革境内之莊嚴寺門之繁榮等一無所不盡心。

本宗の篤信家を以て知られ、身延山[2]、池上[3]、中山[4]、其の他宗門の靈蹟有る所に巡拝し、多大の金品を奉納す。就中、小湊誕生寺に出入し、常に現代貫首を補佐す。堂宇の修繕、山内の改革、境内の莊嚴、寺門の繁榮等、一も心を盡さざる所無し。

 

又為神田元搆搆元努法華経弘通之淨業。更關与幾多公軄東京第八地區劃整理委員東京地方裁判所管内借地權保護者委員下谷神社氏子總代町内總代等不遑枚舉。各本山感謝状賞状不可數也。其功績著大也。可謂希有之篤行家也。茲略記其梗概以而傳後世云爾。

又、神田元搆[5]の搆元と為り、法華経弘通の淨業に努め、更に幾多の公軄に關与す。東京第八地區劃整理委員、東京地方裁判所管内借地權保護者委員、下谷神社氏子總代、町内總代等、枚舉に(いとま)あらず。各本山の感謝状、賞状、數うべからざるなり。其の功績、著大なり。希有の篤行家と謂うべきなり。(ここ)に其の梗概を略記し、以て後世に傳[6]うと云爾(しかいう)

 

昭和十一年五月。 東身延傳燈 權大僧正 雲山日我撰并書。

昭和十一年五月。 東身延[7]傳燈、權大僧正、雲山日我、撰し并せて書す。

 


[1] 姓を継ぐこと。

[2] 身延山には、日蓮宗の大本山、身延山久遠寺がある。

[3] 東京都大田区にある池上本門寺を指す。日蓮宗の大本山。

[4] 市川市にある中山法華経寺を指す。日蓮宗の大本山。

[5] 日蓮宗、あるいは小湊誕生寺の信仰に係る神田所在の講(特定の宗教や寺社を信仰する者たちが地域で集まった互助的な集団)と思われる。

[6] 「傳」は「伝」の旧字。

[7] 茂原市にある藻原寺の異称。日蓮宗の本山。