この石碑は、菰田清一という人物と、左右田豐という人物の事績について述べている碑です。

後記の碑文を読んでいただければお分かりの通り、二人の人物それぞれについての碑文が、一つの碑石の中に並んでいます。

このような例は、戦没者の慰霊碑など内容に関連がある場合にはしばしば見られますが、この碑のように全く内容が別のものは珍しい例と思われます。

 

碑文によると、菰田清一という人物は剣に秀でた人物だったようです。

親族の家に白刃を持った強盗が入ったとの報を聞き、犯人たちを捕まえにいったのですが、多勢に無勢のため、相手に傷を負わせたものの倒されてしまいました。しかし、村人や警官が駆け付け、最終的には犯人は一人残らず捕えられました。碑文では、菰田清一の勇気ある行動のおかげで、一郡兇賊の患を絶つことができたと称えられています。

 

他方、左右田豐という人物は、警官です。

明治12年(1879年)、コレラが日本中で大流行しました。左右田豐は、検疫のため感染者の家々を回り、感染者の世話をしたり、遺骸の葬送をしたりしました。その結果、自らもコレラに罹り、亡くなってしまいます。自らの役目を果たした生であり死であると称えられています。

今、このコロナ禍の中で起きている出来事は、具体的なあり方は当時と全く違うわけですが、やはりその関連性を想わざるにはいられません。

 

 

写真の通り、碑面には石苔が繁茂しています。

判読に苦労した石碑です。

 

 

【題額】 (篆書)

菰田左右田両君招魂碑

 

【本文】

菰田君碑

君諱清一通稱喜兵衛菰田氏父治兵衞母吉清氏夷隅郡若山村人也為人慷

慨負氣節幼好武技及長従室田秀雄受刀法眀治十三年推為里正十四年六

月十六日夜有強賊四人持白刃劫外祖父吉清氏家掠奪貨財而去君聞之憤

然謂賊去未遠余當追撃殲之以除世害即提刀出追之至榎澤村會賊等剽掠

於長者町而歸冝揮白刃與之闘數十合衆寡不敵身被二十二創而斃賊亦各

被數創而亡時天眀偶有村人過此相見大驚急走報之其家及村民村民大舉

皷譟而集巡査亦至即指揮村民物色其迹遂盡逮捕之於是一郡絶兇賊患人

人得髙枕而寝者豈非君一死之所致哉世或有以暴虎馮河論之者夫聞人之

急挺身赴之是偉男子事比之聞寇来則閉戸股操軟弱如婦女子者其優劣果

為如何縣令舩越君賞之賜賻若干頃本郡人相謀醵金建石使余表之恨余筆

卑弱不足盡君之為人焉耳

左右田君碑

君諱豐幼名為次郎父渡邉孫兵衞母横田氏夷隅郡上原村人也為人豪邁幼

好武技及長入於大多喜眀善黌學焉眀治一年為大多喜藩士左右田久兵衛

所養因冒其姓十一年補巡査翌年秋格列剌疫流行於安房國布良相濱死者

頗多盖罹此病死家雖親戚故舊無往弔者以其易感染也時君受撿疫命赴其

村日往看其病又撿其湯藥其易簀也親撿其屍葬殮之葢皆為人之所不能為

既而君亦感染而歿實十二年八月九日也距生萬延紀元四月四日得年僅弱

冠聞者無不揮涙歎惜之縣令柴原君悼之賜賻若干嗚呼人孰無死々不得其

處者多矣如君者死得其處者歟君其可以瞑於地下矣歳之二月本郡人相謀

建碣嘱予銘之予安可以不文辭之銘曰

 善奉其軄 還死其軄 招魂桒梓 建碣神域 君骨雖朽 貞砥不泐

眀治十五年十月九日           大野貞齋 撰

                 大關克篆額 北溟冏謹書

                           志鎌三秀鐫

 

【訓読】

菰田君碑。

菰田君の碑。

 

君諱清一通稱喜兵衛菰田氏。父治兵衞母吉清氏夷隅郡若山村人也。

君、諱は清一、通稱喜兵衛、菰田氏なり。父は治兵衞、母は吉清氏にして、夷隅郡若山村[1]の人なり。

 

為人慷慨負氣節。幼好武技及長従室田秀雄受刀法。眀治十三年推為里正。

人と為り慷慨にして、氣節[2](たの)む。幼くして武技を好み、長ずるに及びて室田秀雄に従いて刀法を受く。眀治十三年、推されて里正[3]と為る。

 

十四年六月十六日夜有強賊四人持白刃劫外祖父吉清氏家掠奪貨財而去。君聞之憤然謂:

賊去未遠余當追撃殲之以除世害。

十四年六月十六日夜、強賊四人有りて、白刃を持して外祖父吉清氏の家を(おびやか)し、貨財を掠奪して去る。君、之を聞きて憤然として(おも)えらく:

賊、去ること未だ遠からず。余、(まさ)に追撃して之を(ほろぼ)し、以て世の害を除くべし、と。

 

即提刀出追之至榎澤村。會賊等剽掠於長者町而歸。冝揮白刃與之闘數十合衆寡不敵身被二十二創而斃。賊亦各被數創而亡。時天眀偶有村人過此相見大驚急走報之其家及村民。村民大舉皷譟而集。巡査亦至即指揮村民物色其迹遂盡逮捕之。

即ち刀を提げて出でて之を追い、榎澤村[4]に至る。(たまたま)賊等長者町[5]を剽掠して歸る。冝しく白刃を揮いて之と闘うこと數十合、衆寡敵せず、身に二十二創を(こうむ)りて斃れり。賊、亦(おのおの)數創を被りて()げり。時は天眀[6](たまたま)村人有りて此を過ぎ、相見て大いに驚き、急走して之を其の家及び村民に報ず。村民、大舉皷譟[7]して集まる。巡査、亦至り、即ち村民を指揮して其の迹を物色し、遂に(ことごと)く之を逮捕す。

 

於是一郡絶兇賊患。人人得髙枕而寝者豈非君一死之所致哉。世或有以暴虎馮河論之者。夫聞人之急挺身赴之是偉男子。事比之聞寇来則閉戸股操軟弱如婦女子者其優劣果為如何。

是に於いて、一郡、兇賊の人を患を絶てり。人人、枕を髙くして寝るを得たるは、豈に君の一死の致す所に非ざらんかな。世に或いは暴虎馮河[8]を以て之を論ずる者有り。夫れ人の急を聞きて身を挺して之に赴くは、是れ偉男子なり。事、之を寇[9]の来たるを聞かば則ち戸を閉ざし、股操軟弱なること婦女子の如き者と比ぶれば、其の優劣、果して如何と為さん。

 

縣令舩越君賞之賜賻若干。

縣令舩越[10]君、之を賞して賻[11]若干を賜う。

 

頃本郡人相謀醵金建石使余表之。恨余筆卑弱不足盡君之為人焉耳。

(このごろ)、本郡の人、相謀りて醵金[12]して石を建て、余をして之を表せしむ。余の筆、卑弱にして君の人と為りを盡[13]すに足らざるを恨むのみ。

 

左右田君碑。

左右田君の碑。

 

君諱豐幼名為次郎父渡邉孫兵衞母横田氏夷隅郡上原村人也。

君、諱は豐、幼名為次郎、父は渡邉孫兵衞、母は横田氏にして、夷隅郡上原村[14]の人なり。

 

人豪邁幼好武技及長入於大多喜眀善黌學焉。眀治一年為大多喜藩士左右田久兵衛所養因冒其姓。十一年補巡査。

人と為り豪邁にして、幼くして武技を好み、長ずるに及びて大多喜の眀善黌[15]に入りて學ぶ。眀治一年、大多喜藩士左右田久兵衛の養[16]う所と為り、因りて其の姓を冒[17]す。十一年、巡査に補せらる。

 

翌年秋格列剌疫流行於安房國。布良相濱死者頗多。盖罹此病死家雖親戚故舊無往弔者。以其易感染也。時君受撿疫命赴其村日往看其病又撿其湯藥其易簀也親撿其屍葬殮之。葢皆為人之所不能為。

翌年の秋、格列剌(コレラ)の疫、安房國に流行す。布良、相濱[18]の死者、頗る多し。(けだ)し此の病に罹りて家に死せば、親戚故舊と(いえど)も、往弔[19]する者無し。其の感染し易きを以てなり。時に君、撿[20]疫の命を受けて其の村に赴き、日に其の病を往看し、又其の湯藥を(あらた)め、其の易簀[21]するや、親しく其の屍を撿めて之を葬殮[22]す。(けだ)し皆人の為すこと能わざる所なり。

 

既而君亦感染而歿。實十二年八月九日也。距生萬延紀元四月四日得年僅弱冠。聞者無不揮涙歎惜之。

既にして君も亦感染して歿す。實に十二年八月九日なり。萬延[23]紀元四月四日に生ずるより距てて、年を得ること僅かに弱冠。聞く者、涙を揮いて之を歎惜せざるは無し。

 

縣令柴原君悼之賜賻若干。

縣令柴原[24]君、之を悼み、賻若干を賜う。

 

嗚呼人孰無死。死不得其處者多矣。如君者死得其處者歟。君其可以瞑於地下矣。

嗚呼、人、(たれ)か死ぬこと無からん。死して其の處を得ざる者、多し。君の如きは、死して其の處を得たる者なるか。君、其れ以て地下に瞑すべし。

 

歳之二月本郡人相謀建碣嘱予銘之。予安可以不文辭之。

歳の二月、本郡の人、相謀りて碣を建て、予に之を銘するを嘱す。予、(いずく)んぞ不文を以て之を辭すべけんや。

 

銘曰:

善奉其軄 還死其軄

招魂桒梓 建碣神域

君骨雖朽 貞砥不泐

銘に曰く:

善く其の軄を奉じ ()た其の軄に死す

魂を桒梓[25]に招き 碣を神域に建つ

君の骨は朽つると雖も 貞砥[26]()れず

 

眀治十五年十月九日。 大野貞齋 撰。

大關克篆額。 北溟冏謹書。

志鎌三秀鐫。

眀治十五年十月九日。 大野貞齋、撰。

大關克、篆額。 北溟冏、謹書。

志鎌三秀、鐫。

 


[1] 現在のいすみ市内の地名。大原の近くに位置する。

[2] 気概と節操。気骨。

[3] 村長のこと。中国古代の地方制度における村長の名称。江戸期日本の庄屋、名主を漢文風に言い回した表現としても定着。ここでは、明治の新制度下における村長を指す。

[4] 現在のいすみ市内の地名。岬町榎沢。

[5] 現在のいすみ市内の地名。岬町長者。

[6] 明け方のこと。

[7] 太鼓を打ち鳴らすように騒がしくすること。

[8] 「暴虎」は虎を手でたたく、「馮河」は大きな川を歩いて渡る、の意。合わせて、無謀であることのたとえ。出典は論語述而篇。

[9] 外敵。外からやってきた賊。

[10] 第二代千葉県令(初代千葉県知事)、船越衛。広島藩出身の軍人、内務官僚。千葉県知事退任後は貴族院議員等を歴任。

[11] 死者を弔うために贈る金品のこと。

[12] 一定の目的のために金銭を出し合うこと。

[13] 「盡」は「尽」の異体字。

[14] 現在の大多喜町内の地名。城下町であった中心市街地の南隣に位置する。

[15] 明善黌は、大多喜藩の藩校。現在の県立大多喜高校の前身。

[16] 養子とすること。

[17] 姓を継ぐこと。

[18] 布良、相浜は、いずれも現在の館山市内の地名。館山市の南端付近に位置する。

[19] 弔いに往くこと。

[20] 「撿」は「檢」に同じ。「檢」は「検」の旧字。

[21] 死ぬこと。簀(すのこ)を易(か)える。曽子が死の際に季孫から賜った簀を代えたという礼記の故事による。

[22] 葬儀のこと。

[23] 萬延は、江戸末期の元号。1860~1861年。

[24] 初代千葉県令、柴原和。龍野藩出身で、維新後、甲府県大参事、千葉県令、山形県知事等、各地の地方官を歴任し、後に貴族院議員。

[25] 故郷のこと。「桒」は「桑」の異体字。垣根に桑と梓を植え、養蚕や器具用として子孫のために残したという詩経小雅の故事から、桑梓は父母への敬慕を表し、さらに転じて故郷の意を持つ。

[26] 碑石のこと。