宮本の逮捕は衝撃であったが、共産党は直ちに警察の不当な弾圧であるとの声明を出す。だが、自分たちが人を殺したことは片づけようもなかった。
自分たち自身は黙り込めば隠し通せるが問題は被害者である。被害者が黙り続けるなど考えられなかった。
結果、大泉と女性の計二人は“自殺”を強要され、翌昭和九(一九三四)年一月一四日が自殺の「執行日」と定められた。
その前日の一三日には和菓子が提供されたが、同時に、「思想的に行き詰まったので自殺する」という内容の“遺書”を書かされた。
ところが、“自殺”は延期された。
警察の気配が感じられたからである。
宮本の逮捕でひと段落ついたと考えていた共産党であったが、彼らは思い違いをしていた。
警察の目的は人命救助であって宮本の逮捕ではないことを考えていなかったのである。
“自殺”直後が警察に露見することを恐れた共産党は「執行」を遅らせることを決定。二人は現在の目黒区にある別のアジトに移された。
アジトに対する目星は警察でもついていた。ただし、そこがアジトであるという証拠はどこにもなかった。礼状のない捜査が違法なのはこの時代でも同じである。人命救助という大前提があっても、勝手に家屋に押し入ることはこのときはまだ許されていなかった。
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