行きつくところ
まずもの凄く説得力のある体罰問題について住職になられた南直哉さんと言う方がブログを書いていますので紹介します。(かなりうなずけました。)
http://indai.blog.ocn.ne.jp/
何気なく仏教の教えも絡んでいるのかなーと思いながら読みましたがさすがの説得力です。
話だと体罰の定義をしっかりとらえている気がします。
私が体罰を否定しないというのも必要なこともあるのでないかと思うものは、南さんの話だと体罰ではないと課程出来てしまう。
ようするにそれも体罰あれも体罰ではなく、体罰はこういうものなのだということが分かりやすく書かれている。
でも現場ではそうでないものも全て体罰として受けとらえられてしまっている可能性はないか?
と感じました。
体罰無くなれば問題ない。でも実在するもの。
結論としては体罰としての定義を明確にすることと、権利を主張するのなら責任が伴うことを理解して体罰を実行することしかないのかなと思えてきました。(このブログもそのようなことが書いてありました。)
私が体罰を受けた経験は、本当にここに書かれていることのような感じだったのか?というのがどうも腑に落ちないというか、理解できるけど違う気がするという気分になってしまいます。
この気持ちはなんなのでしょうかね・・・・。
私も座禅にいってみようかなと思います。
私が行きついたところはやはり自分の正義を貫いていくしかないのかなと・・・。
http://indai.blog.ocn.ne.jp/
何気なく仏教の教えも絡んでいるのかなーと思いながら読みましたがさすがの説得力です。
話だと体罰の定義をしっかりとらえている気がします。
私が体罰を否定しないというのも必要なこともあるのでないかと思うものは、南さんの話だと体罰ではないと課程出来てしまう。
ようするにそれも体罰あれも体罰ではなく、体罰はこういうものなのだということが分かりやすく書かれている。
でも現場ではそうでないものも全て体罰として受けとらえられてしまっている可能性はないか?
と感じました。
体罰無くなれば問題ない。でも実在するもの。
結論としては体罰としての定義を明確にすることと、権利を主張するのなら責任が伴うことを理解して体罰を実行することしかないのかなと思えてきました。(このブログもそのようなことが書いてありました。)
私が体罰を受けた経験は、本当にここに書かれていることのような感じだったのか?というのがどうも腑に落ちないというか、理解できるけど違う気がするという気分になってしまいます。
この気持ちはなんなのでしょうかね・・・・。
私も座禅にいってみようかなと思います。
私が行きついたところはやはり自分の正義を貫いていくしかないのかなと・・・。