為末さんの考え方3
これで為末さんの考え方は最後になります。
ここまで為末さんの考え方を書いたのは、為末さんと議論するとたぶんこのように私は為末さんに答えていくのだろうと思います。
私は為末さんのように簡潔に哲学的に説明できないけれど、私の思いだけは伝えられるよう頑張って書いています。
またやはり体罰一つにとっても、様々な方向で考えていくことが大事でやはり枝分かれしていくとまた新たな問題にぶつかる。不思議なものでやはり何にしても原因は一つではないということがいえるのだと改めて思います。
ではつづきを。
<最期のまとめ>
体育会系と呼ばれる存在が企業に人気なのはまさしくそういうイメージがあるのかもしれない。だが私はいいことなのではないかと思う。こういった教育が本当に行き届いているならこれはある意味の成果ではないだろうか?悪い方にとらえれば悪くなるし、良い方向にとらえればいいことだ。
結局企業はいい方向にとらえているのだろう。またこうしたことはなにもパワハラに耐えるためにやっているという認識が本当にあるのだろうか?ということは疑問だ。(もちろんその耐性がついていたという結果があるのかもしれない。)
企業が求める人材は企業にとって利益になりうるのかどうか?というところが一番なのではないか?
私はなぜこのように体育会系が人気があるのか?と言えばそれは体育会系出身者が社会で結果を残してきたことが評価されていることが一番の理由だと思う。
為末さんの疑問はきっと個を中心として考えている傾向があって、そうなれたらいいなとみんな誰もが憧れる。
本当にそんな世の中でうまくいくのであれば素晴らしいことなんだろうけど、今の企業社会の中で個が光るのはやはり限られた人だけだと私は思う。
今の社会では、個が尊重されるときというのはきっと輪を尊重できている人が初めて個を発揮できる権利を得られるのではないだろうか?
それか強烈な結果を出していく人や輪はいらないと思っている人(孤立してもいいと考えている人?)ではないだろうか?
集団の中でそれぞれ個ばかりが先行してしまえば企業もチームも破綻してしまうと私は考えている。
最期の時代は変わってきているの文面これもやはり五分だ、それがいい方向に向かうこともあるが悪い方向に向かうこともある。
私は今現在はどちらもないといけないと思うのだ。今の体育会といわれるシステムも大事、またグローバル化で個を出すようになることも大事というのが答えだ。
私の経験上私はすさまじく個を出してきた。
私はある程度スポーツ選手として結果を出せたからこそ生き残れた。また為末さんも同じことが言えるのではないだろうか?
私は指導者には助けられたが世間からは非難は並大抵のものではなかった。またそれに拍車をかけて私は後輩に殴りたいぐらいの感情に駆られた経緯も公に書いたことがそれに拍車をかけた。
個を出すということは、エネルギーもいれば、覚悟もいれば、責任が重くのしかかる。また周りに対する評価や重圧は並大抵のものではない。
結果を出せば個は生きるが、出さなければ暗闇に沈む。
体育会と企業のことだけを考えて議論するのなら私は個が必要と考えているのは、世の中の大多数の人がそこに希望を感じ理想を感じている(そうなりたいと思っている)からこそ賛成するのだと思う。
個が出せるということができたということは、輪の人たちがリスペクトしているということ。輪がリスペクトしてなければ個は評価されない。(されなくていいのなら関係のない話なのだが)
そう考えると個が必要と考えているのではなく、企業は価値を生み出す個が必要だと言う考え方でそれ以外ではやはりスポーツ社会のモデルを企業はリスペクトしているのではないだろうか?
ただ個を出す権利は誰にでもあるということは間違いない。
私は指導という現場でやはり輪を大事にした指導を行うだろう。
理由は簡単だ、同じ目的のためにチームが動いていて、そういう集団の集まりが私が今おかれている場所だ。
これは私だけの意思だけでなく、選手一人一人がその目的のために動いていると理解しているからだ。
為末さんの言葉を借りるなら、礼儀を教え、限界を作らず、忍耐強く、空気を乱さず(空気を読む)、熱意をもって動く選手を育てていきたいと思うし指導をしていきます。
しかしそれによって個をつぶすという考え方ではなく輪を大事にする大切さを理解してこそ個が光ってくるということを教えていきたい。
やはり体罰問題ということを紐解いていくと指導のやり方というところに行きつくのだなと思った。
以上で為末さんの考え方に対する僕の考え方を終わります。
次は指導者の立場についてや指導論を問題定義していきたいと思います。
ここまで為末さんの考え方を書いたのは、為末さんと議論するとたぶんこのように私は為末さんに答えていくのだろうと思います。
私は為末さんのように簡潔に哲学的に説明できないけれど、私の思いだけは伝えられるよう頑張って書いています。
またやはり体罰一つにとっても、様々な方向で考えていくことが大事でやはり枝分かれしていくとまた新たな問題にぶつかる。不思議なものでやはり何にしても原因は一つではないということがいえるのだと改めて思います。
ではつづきを。
<最期のまとめ>
体育会系と呼ばれる存在が企業に人気なのはまさしくそういうイメージがあるのかもしれない。だが私はいいことなのではないかと思う。こういった教育が本当に行き届いているならこれはある意味の成果ではないだろうか?悪い方にとらえれば悪くなるし、良い方向にとらえればいいことだ。
結局企業はいい方向にとらえているのだろう。またこうしたことはなにもパワハラに耐えるためにやっているという認識が本当にあるのだろうか?ということは疑問だ。(もちろんその耐性がついていたという結果があるのかもしれない。)
企業が求める人材は企業にとって利益になりうるのかどうか?というところが一番なのではないか?
私はなぜこのように体育会系が人気があるのか?と言えばそれは体育会系出身者が社会で結果を残してきたことが評価されていることが一番の理由だと思う。
為末さんの疑問はきっと個を中心として考えている傾向があって、そうなれたらいいなとみんな誰もが憧れる。
本当にそんな世の中でうまくいくのであれば素晴らしいことなんだろうけど、今の企業社会の中で個が光るのはやはり限られた人だけだと私は思う。
今の社会では、個が尊重されるときというのはきっと輪を尊重できている人が初めて個を発揮できる権利を得られるのではないだろうか?
それか強烈な結果を出していく人や輪はいらないと思っている人(孤立してもいいと考えている人?)ではないだろうか?
集団の中でそれぞれ個ばかりが先行してしまえば企業もチームも破綻してしまうと私は考えている。
最期の時代は変わってきているの文面これもやはり五分だ、それがいい方向に向かうこともあるが悪い方向に向かうこともある。
私は今現在はどちらもないといけないと思うのだ。今の体育会といわれるシステムも大事、またグローバル化で個を出すようになることも大事というのが答えだ。
私の経験上私はすさまじく個を出してきた。
私はある程度スポーツ選手として結果を出せたからこそ生き残れた。また為末さんも同じことが言えるのではないだろうか?
私は指導者には助けられたが世間からは非難は並大抵のものではなかった。またそれに拍車をかけて私は後輩に殴りたいぐらいの感情に駆られた経緯も公に書いたことがそれに拍車をかけた。
個を出すということは、エネルギーもいれば、覚悟もいれば、責任が重くのしかかる。また周りに対する評価や重圧は並大抵のものではない。
結果を出せば個は生きるが、出さなければ暗闇に沈む。
体育会と企業のことだけを考えて議論するのなら私は個が必要と考えているのは、世の中の大多数の人がそこに希望を感じ理想を感じている(そうなりたいと思っている)からこそ賛成するのだと思う。
個が出せるということができたということは、輪の人たちがリスペクトしているということ。輪がリスペクトしてなければ個は評価されない。(されなくていいのなら関係のない話なのだが)
そう考えると個が必要と考えているのではなく、企業は価値を生み出す個が必要だと言う考え方でそれ以外ではやはりスポーツ社会のモデルを企業はリスペクトしているのではないだろうか?
ただ個を出す権利は誰にでもあるということは間違いない。
私は指導という現場でやはり輪を大事にした指導を行うだろう。
理由は簡単だ、同じ目的のためにチームが動いていて、そういう集団の集まりが私が今おかれている場所だ。
これは私だけの意思だけでなく、選手一人一人がその目的のために動いていると理解しているからだ。
為末さんの言葉を借りるなら、礼儀を教え、限界を作らず、忍耐強く、空気を乱さず(空気を読む)、熱意をもって動く選手を育てていきたいと思うし指導をしていきます。
しかしそれによって個をつぶすという考え方ではなく輪を大事にする大切さを理解してこそ個が光ってくるということを教えていきたい。
やはり体罰問題ということを紐解いていくと指導のやり方というところに行きつくのだなと思った。
以上で為末さんの考え方に対する僕の考え方を終わります。
次は指導者の立場についてや指導論を問題定義していきたいと思います。