体罰について | 徳本一善オフィシャルブログ「-ICHIZEN-」by Ameba

体罰について

いろいろなご意見ありがとうございます。

とても考えさせられました。

私の考えを少しまとめてみたので読んでいただければと思います。

ここで言っておきたいのは、今マスコミが騒がしている事件のことを趣旨としているわけではなく、体罰という言葉に関して世の中の論調が悪と決め付けていることについて書いています。

しかしこれは私の考え方であって、違うと思う人もいれば論点が違うと疑問を持つ方もいると思いますが、私もこういうことを真剣に向き合ってみたことはなかったので暖かい目で読んでいただければと思います。

まず体罰という言葉をいろいろ調べてみましが、やはりものすごく曖昧な言葉なんだということを感じました。

私がイメージしている体罰とは2種類あると考えていましたが、体罰は同じ行為であるということのようです。

なぜ私の中でこのような違和感や疑問が生まれるのかというと、この体罰を受けた人たちにもありがたかったと思っている人、あの時のことがあったから今の社会を耐えて生きていけているといった肯定的な意見、そうではなく憎んでいたり、怒りを覚えていて、体罰によって苦しめられた人たちもまた多くいるという意見があることです。

もちろんこの前に書いたとおり私の経験は、良い方に体罰をとらえてしまったという経緯があります。

 しかしこんな意見もありました。「それはうけたことがあるからこそ、合理化してしまっていて、殴られてこなかった場合の考察がないので体罰をやってはならないということが分からないだろう」というもっともなご指摘も頂きました。(確かにそうだ!と思いました)

しかしそれを言ってしまっては私自身の今の存在を否定してしまうことになると思うし考察して思うことはやはり経験したことで語らないと語れないと思っています。

また実話をドラマ化、映画化した「スクールウォーズ」という作品は不良高校ラグビー部が全国を目指しながら仲間の大切さやスポーツの素晴らしさを描いた作品なのですが、そこのあるシーンで不甲斐ない試合で終わったことに選手自ら先生に殴ってくれと願い先生が一人づつ殴っていくシーンが見られます。

私はこの映画を見て感動しましたが、今の世の中の流れだと不適切なのでは?ということになります。

しかし今報道されている体罰報道やいろいろ体罰についての事件の例を見て私の感じたことは初めはしつけや教育のためにと思ってやっていたことがいつしか権力を振りかざすただの暴力になってしまったのではないのか?と感じてしまうのです。(もちろんマスコミが語る事実だけでの判断です。)


ですが教育的なことからいうとどちらも体罰に該当してしまいます。(私が読んだものは義務教育に関してのものだったと思いますが)

私の中で体罰は2種類あると感じてしまう理由かもしれません。


また厳しいと体罰は紙一重でもあると感じています。

テレビで競輪学校のドキュメントをやっていたときに、何かミスをしたときに竹刀のようなものでお尻を殴られるシーンを見たことがあります。選手が教官にお尻を差し出すのです。

選手も分かっていてやる。しかし今の流れからでは体罰だと思うのですが、また何か言い方があるのでしょうか。

私はこのドキュメントを見て、厳しい世界なんだ!すごいな!と思っただけでこれは断じて体罰だ!ゆるせない!と思ったことはなかったです。

しかし殴られることは自分が悪いと思っていても殴ることは許されないという今の論調です。

基本的な私の考えは殴るという行為自体は反対ですがやはり体罰はすべて悪という論調には違和感を覚えてしまいます。


あるインターネット上のコメントには「人には言葉があり、体罰をする行為は言葉で説得できない技量のない人たちのすることだ」と書いてありましたが、私は言葉ですら暴力になる危険な力を秘めていると思います。

言葉だけではなく何かをやらせる行為にしてもそうです。ようするにすべてを同じと考えることがおかしいと感じてしまいます。

ですので体罰というものが完全に悪だという論調には賛成できません。

私にとって教育的なことやスポーツの世界で恐いものはなんだ?と考えていたときに、「無関心」が一番怖いことだと思います。

何もされない、何も教えてくれないことが一番怖いように感じてしまいます。

もしこの体罰がすべて悪として、正しいことだと思えることでも罰せられることがあるのなら先生方、指導者などの教育する立場の人はどうすればいいのか?という疑問に耐えきれず「無関心」という状態を作り、本当に子供たちに教育できる環境になるのか?とも思うのです。

怒られることの方がよほど自分に関心を向けてくれていると感じるのではないかとも思います。

もちろんそうでない無関心にされている方がましだ!という方もいるかもしれません。

それはあくまで考え方の違いでもあるし、私は前に書いたように何事も「過ぎ」というものがおかしくさせるのだと思っています。

要するに体罰がすべて悪というのではなく、人としての行為に体罰でなくともやってはいけないことまた正しいと思える体罰やなんらかしらの罰を与えたときに対する周りの対処や当事者への対処をどうするのか?議論しなければいけないと私は思いました。

あまりにも体罰ということばに今の論調は「過ぎ」というものになっているのではないかと私は考えています。

余談ですが、北斗の拳という漫画で思うことがあります。

同じ目的を果たすために、愛で平和を望むのか?恐怖で平和を望むのか?同じ目的の世界でも進む方向が違います。

もちろん漫画なので最終的にはケンシロウが勝利しめでたしめでたしなのですが、ファンの間ではラオウをリスペクトする人たちがけっこういるのです。

真意が分かればそのやり方も否定できないという議論は私は好きなのです。

世の中矛盾ばかりだと感じています。またこの問題も矛盾だらけなような気がしています。