(1)前置き
ロシアがウクライナに軍事行動を開始したすぐあとに、安倍晋三元首相が、NATOが核共有をしていることを紹介して、日本も核に関する議論をすべきだとおっしゃった。
3月3日の自民党の安倍派の会合でのご発言。
2月27日の産経新聞の『安倍元首相「核共有」の議論を』というタイトルの記事。
『自民党の安倍晋三元首相は27日午前のフジテレビ番組で、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、米国の核兵器を自国領土内に配備して共同運用する「核共有(ニュークリア・シェアリング)」について、国内でも議論すべきだとの認識を示した。「日本は核拡散防止条約(NPT)の加盟国で非核三原則があるが、世界はどのように安全が守られているかという現実について議論していくことをタブー視してならない」と述べた。』
こういう報道を聞くと、安部元首相は、「日本も核共有すべきだ」とおっしゃったという印象を受ける。
しかし、高市早苗政調会長によると、そうではないらしい。
3月6日のスポーツ報知の『高市早苗氏、安倍晋三氏の「核共有」発言に「安倍総理は、日本も核シェアリングすべきとおっしゃったんではない」』
『高市氏は安倍氏の発言に「先週の安倍総理は、日本も核シェアリングをするべきだとおっしゃったんではなくて、NATOの核シェアリングについて紹介された上で、どうやって世界で安全が守られているか、そういう議論についてタブー視すべきじゃないとおっしゃったわけです」と説明していた。』
安倍元首相がおっしゃる議論の中には、NATOの核共有についての理解と日本への導入可能性(そのまま?形を変えて?)の検討も、当然、含まれるだろう。
安倍元首相が、NATOの核共有を紹介されたのは、参考になりますよという趣旨だろう。
ということは、安倍元首相は、「日本も核共有すべきだとまでは言わないけど、NATOの核共有の研究と導入可能性の検討も含めて、議論をしましょう。」とおっしゃったことになる。
(2)非核三原則
非核三原則。
外務省のホームページによると、「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まないというこの核に対する三原則」とある。
「核は保有しない。核は製造もしない。核を持ち込まない。」という3つの原則。
ウィキペディアによると、核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」の三原則とされている。
この非核三原則は、どこから出てきたのか?
それは、①平和憲法(憲法の平和主義)、②唯一の被爆国という事実の2つだと思う。
ここから、2つの性格が導かれる。
(ア)政治的立場であること
憲法に、「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず。」と書いてある訳ではない。
法律にも書いていない。
政府が表明したり、国会の各議院が決議の形で表明したりした政治的立場ということになる。
政治的立場は、政策と呼ばれる。
ところで、政治とは、事実状態(社会における利益のあり方の実情)をルールにまで高める過程のこと。
政府及び国会は、非核三原則を認めたが、これを憲法に書きこまなかった。法律の形にまでも、しなかった。
ただ、政策として表明するにとどめた。政策という形のルール。
ルールの固さには、違いがある。
憲法が一番変えにくい。一番固い。
法律が、その次に固い。
政策にも、種々ある。固いものから柔らかいものまで。
非核三原則は、繰り返し表明されてきた。国会の各議院の決議の繰り返されてきた。このような点から、相当固いと言えるだろう。しかし、政策であるという点からは、変えることも許容されると言えるだろう。両面がある。
政治は、事実状態の反映である。
事実状態の変化にしたがって、変わっていくことがありうる。
「衆議院予算委員会における佐藤総理答弁(1967年(昭和42年)12月11日)」とある。
昭和42年に表明された。
昭和39年(1964年)に中華人民共和国が核兵器を保有した(ウィキペディアによる)。
現在、北朝鮮が核兵器を保有していると言われている。
ミサイルの機能の向上。射程距離の拡大。
(イ)憲法に関する基本原則であること
非核三原則が固いものだとする立場の大きな根拠となっているのが、憲法に関する原則であること。
東北大学の憲法学の教授だった小嶋和司教授は、次のように書いている。
「政治論と同じように、憲法の解釈論にしばしば登場してくるのは、国民主権とか、民主主義、権力分立、基本的人権尊重といった政治的ドグマである。」
「右のような現象は、国民主権とか、民主主義、権力分立、基本権といった観念が神格的地位をあたえられて尊崇されているために起こったものである。けれども、これらの観念は、尊崇をえているだけに、論者によって、雑多の場合に(時には相反する役割さえあたえられて)使用されることとなった(たとえば、国民主権論や民主主義論が代議制にイデオロギーを提供するかとおもえば、独裁権力の合理化、合法化の役割にも使われるごとし)。そのため、観念じしん、多義的で、外縁の不明確なものとなっている。したがって、それらを決め手として議論を決っすることは、実は論者がそれらの観念にあたえた意味をもって論議の判断基準とするもので、法的判断の外容を藉りた主観的決定たる可能性が多いと言わなければならぬ。」
以上、引用はすべて「小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題」中の「21 法律学の道しるべ――憲法(抄)」(461、462頁)より。
ここで小嶋教授が挙げているドグマは、憲法制定当時から言われていたもの。
これに対して、非核三原則は、憲法制定後時間が経ってから、表明されたもの。
登場した時期は異なるが、小嶋教授が述べられたことの多くは、非核三原則にも当てはまる。
非核三原則は、憲法に結び付けられて、政治的ドグマとして「神格的地位をあたえられて尊崇されてきた」。
その結果、議論をすることさえ、封殺され、その中身がどういうものなのか、原則というだけに例外もあるのか、ないのか、例外がある場合にその例外はどういう場合にどういうものが認められるのかという議論もなされなかった。禁じられていた。
その結果、非核三原則の観念じしん、中身があいまいなうえに、「外縁の不明確なものとなっている」。
また、一般的に言って、世の中の根本的なものほど、論理の問題ではなく、選択の問題となる。
非核三原則は根本的な問題だから、選択の問題である。
その人の、人格をかけての選択。人生観・世界観・宇宙観・社会観・歴史観がそこに出る。
選択は「主観的決定」である。厳密な検討が忌避された。現実との関係が等閑視された。
原爆の被害の悲惨さが、強い感情(思いの強さ)となって、核に関する判断の主観的色彩を強めた。厳密な検討が弾きされた。現実との関係が等閑視された。あの悲惨さ。無理もない流れだった。
(3)結びに
非核三原則は、日本が核兵器を使用するという可能性をゼロにする。
しかし、日本が核兵器を使用される可能性を、おそらく増大させる。
同時に、日本が核兵器以外の攻撃をされる可能性を、おそらく増大させる。
唯一の被爆国(原爆を使用された国)であることから導き出された非核三原則が、核兵器を使用される可能性を高めているという状況。ここの矛盾がある。
地球上に核兵器がある限り、核廃絶運動すらも、核戦略の一環である。
核廃絶運動は、どこかの国の核の優位性の維持・増大のための、極めて核戦略的活動である。
ウクライナは、核兵器を保有していた。
しかし、核兵器を放棄した。
保有していたら、ロシアは軍事攻撃をしなけなかったと推測できる。
また、プーチン大統領は、核兵器の使用をちらつかせて、状況を自国に有利に運ぼうとしている。
核兵器の威嚇は、極めて有効であることが、現実に示されている。
日本に対して、核兵器をちらつかせての脅しがされたら、やはり怖いだろう。
相手の要求を呑むしかなくなる。
最大威力の兵器の保有とその数量が、国家の力の最終的な裏付けになる。それは、国家の立場に直結する。
非核三原則を神格的ドグマの地位から解き放って、現在の世界の防衛の実情を広く検討し、日本の安全を守る途を考える・議論することが、遅まきながら必要となっているのではないか。