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下関在住の素人バイオリン弾きのブログ

素人のバイオリン演奏や猫との暮らしなど、平凡な日々をアップします。

私は、ビデオカメラを2台所有している。

 

1台は、音楽用の高音質な動画が撮れるやつだ。高音質なのだけど、画質が暗い感じになる。

 

なので、お蔵入りとなっている。

 

いつも使っているのは、もう1台の方。

 

こっちが、今日、壊れた。

 

録画を押しても「データを修復しています」というメッセージが出て、動かなくなる。

 

以前、1度このメッセージが出たことがあり、あれこれやっていたら、動くようになった。

 

だから、今回も、でたらめにあれこれ操作を繰り返した。

 

すると、うんともすんとも言わなくなった。

 

いつもなら、サイド・モニターを開くと、「ピロリロリロリーン」という音が鳴る。

 

それも鳴らなくなった。

 

どこをいじっても、うんともすんとも言わない。

 

というか、いじれるところも、限られている。

 

お手上げだ。

 

同じ機種を買おうかとアマゾンで検索した。

 

すると、画面の表示から、このビデオカメラを買ったのが7年前だと判明した。

 

7年間いろいろあったなと、感慨深かった。

 

いろいろとビデオカメラを検索した。どれを買おうかな。お金がないから痛いな……。

 

動かないカメラに、寂しさが漂った。

 

「もうお別れか。ありがとう。」

 

もうどうしようもない。

 

お尻についているリチウム電池を外した。

 

そして、もう一度つけた。

 

サイド・モニターを開いた。

 

「ピロリロリロリーン」

 

直った。

 

よかった。

 

SONYのビデオカメラ。

 

私が生まれ育った家にあったブラウン管式テレビ。

 

古いものだけど、まったく壊れずに映っていた。

 

そのテレビもソニーだった。

 

ソニーはすごい。

 

という訳で、このビデオカメラとは、まだまだ付き合いが続きそうだ。

 

新しいものもほしいけど、操作に慣れているから、これが一番だと感じる。

 

でも、USBコードが、相当傷んでいる。いつまでもつのか……。

春が来た。

 

今年の冬も、厳しかった。

 

年々、寒さが身に堪えるようになっている。

 

ああ、なんとか冬を越せたか・・・というのが、しみじみとした感想だ。

 

そして、春がこれば、カヤが、芽を出している。

 

これが嬉しい。

 

以前の記事にも書いたが、うちの猫の大好物だ。

 

普段はぼうぼうとしげっている。

 

切っても、すぐに伸びる。

 

しかし、冬が来ると、ピタッと成長を止める。

 

そして、冬の雪や厳しい風の中で、葉っぱは、枯れていく。

 

毎日、カヤを摘んで猫にやるが、「もう尽きるか、もうなくなるか」といつも思いながら、摘んでいた。

 

そのカヤの供給が、なんとか、春までもった。

 

そして、供給に心配がなくなる季節がやってきた。

 

一安心だ。

 

そして、カヤが憎くなる季節でもある。

 

切っても切っても、ぼうぼうに茂る。

 

憎い憎いカヤ。

 

憎い憎い空地。

 

でも、うちの猫に大好物を供給してくれる、贅沢な空地でもある。

 

持ち主さんには会ったこともない。

(1)前置き

ロシアがウクライナに軍事行動を開始したすぐあとに、安倍晋三元首相が、NATOが核共有をしていることを紹介して、日本も核に関する議論をすべきだとおっしゃった。

3月3日の自民党の安倍派の会合でのご発言。

2月27日の産経新聞の『安倍元首相「核共有」の議論を』というタイトルの記事。

『自民党の安倍晋三元首相は27日午前のフジテレビ番組で、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、米国の核兵器を自国領土内に配備して共同運用する「核共有(ニュークリア・シェアリング)」について、国内でも議論すべきだとの認識を示した。「日本は核拡散防止条約(NPT)の加盟国で非核三原則があるが、世界はどのように安全が守られているかという現実について議論していくことをタブー視してならない」と述べた。』

こういう報道を聞くと、安部元首相は、「日本も核共有すべきだ」とおっしゃったという印象を受ける。

しかし、高市早苗政調会長によると、そうではないらしい。

3月6日のスポーツ報知の『高市早苗氏、安倍晋三氏の「核共有」発言に「安倍総理は、日本も核シェアリングすべきとおっしゃったんではない」』

『高市氏は安倍氏の発言に「先週の安倍総理は、日本も核シェアリングをするべきだとおっしゃったんではなくて、NATOの核シェアリングについて紹介された上で、どうやって世界で安全が守られているか、そういう議論についてタブー視すべきじゃないとおっしゃったわけです」と説明していた。』

安倍元首相がおっしゃる議論の中には、NATOの核共有についての理解と日本への導入可能性(そのまま?形を変えて?)の検討も、当然、含まれるだろう。

安倍元首相が、NATOの核共有を紹介されたのは、参考になりますよという趣旨だろう。

ということは、安倍元首相は、「日本も核共有すべきだとまでは言わないけど、NATOの核共有の研究と導入可能性の検討も含めて、議論をしましょう。」とおっしゃったことになる。

(2)非核三原則

非核三原則。

外務省のホームページによると、「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まないというこの核に対する三原則」とある。

「核は保有しない。核は製造もしない。核を持ち込まない。」という3つの原則。

ウィキペディアによると、核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」の三原則とされている。

この非核三原則は、どこから出てきたのか?

それは、①平和憲法(憲法の平和主義)、②唯一の被爆国という事実の2つだと思う。

ここから、2つの性格が導かれる。

(ア)政治的立場であること

憲法に、「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず。」と書いてある訳ではない。

法律にも書いていない。

政府が表明したり、国会の各議院が決議の形で表明したりした政治的立場ということになる。

政治的立場は、政策と呼ばれる。

ところで、政治とは、事実状態(社会における利益のあり方の実情)をルールにまで高める過程のこと。

政府及び国会は、非核三原則を認めたが、これを憲法に書きこまなかった。法律の形にまでも、しなかった。

ただ、政策として表明するにとどめた。政策という形のルール。

ルールの固さには、違いがある。

憲法が一番変えにくい。一番固い。

法律が、その次に固い。

政策にも、種々ある。固いものから柔らかいものまで。

非核三原則は、繰り返し表明されてきた。国会の各議院の決議の繰り返されてきた。このような点から、相当固いと言えるだろう。しかし、政策であるという点からは、変えることも許容されると言えるだろう。両面がある。

政治は、事実状態の反映である。

事実状態の変化にしたがって、変わっていくことがありうる。

「衆議院予算委員会における佐藤総理答弁(1967年(昭和42年)12月11日)」とある。

昭和42年に表明された。

昭和39年(1964年)に中華人民共和国が核兵器を保有した(ウィキペディアによる)。

現在、北朝鮮が核兵器を保有していると言われている。

ミサイルの機能の向上。射程距離の拡大。

(イ)憲法に関する基本原則であること

非核三原則が固いものだとする立場の大きな根拠となっているのが、憲法に関する原則であること。

東北大学の憲法学の教授だった小嶋和司教授は、次のように書いている。

「政治論と同じように、憲法の解釈論にしばしば登場してくるのは、国民主権とか、民主主義、権力分立、基本的人権尊重といった政治的ドグマである。」

「右のような現象は、国民主権とか、民主主義、権力分立、基本権といった観念が神格的地位をあたえられて尊崇されているために起こったものである。けれども、これらの観念は、尊崇をえているだけに、論者によって、雑多の場合に(時には相反する役割さえあたえられて)使用されることとなった(たとえば、国民主権論や民主主義論が代議制にイデオロギーを提供するかとおもえば、独裁権力の合理化、合法化の役割にも使われるごとし)。そのため、観念じしん、多義的で、外縁の不明確なものとなっている。したがって、それらを決め手として議論を決っすることは、実は論者がそれらの観念にあたえた意味をもって論議の判断基準とするもので、法的判断の外容を藉りた主観的決定たる可能性が多いと言わなければならぬ。」

以上、引用はすべて「小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題」中の「21 法律学の道しるべ――憲法(抄)」(461、462頁)より。

ここで小嶋教授が挙げているドグマは、憲法制定当時から言われていたもの。

これに対して、非核三原則は、憲法制定後時間が経ってから、表明されたもの。

登場した時期は異なるが、小嶋教授が述べられたことの多くは、非核三原則にも当てはまる。

非核三原則は、憲法に結び付けられて、政治的ドグマとして「神格的地位をあたえられて尊崇されてきた」。

その結果、議論をすることさえ、封殺され、その中身がどういうものなのか、原則というだけに例外もあるのか、ないのか、例外がある場合にその例外はどういう場合にどういうものが認められるのかという議論もなされなかった。禁じられていた。

その結果、非核三原則の観念じしん、中身があいまいなうえに、「外縁の不明確なものとなっている」。

また、一般的に言って、世の中の根本的なものほど、論理の問題ではなく、選択の問題となる。

非核三原則は根本的な問題だから、選択の問題である。

その人の、人格をかけての選択。人生観・世界観・宇宙観・社会観・歴史観がそこに出る。

選択は「主観的決定」である。厳密な検討が忌避された。現実との関係が等閑視された。

原爆の被害の悲惨さが、強い感情(思いの強さ)となって、核に関する判断の主観的色彩を強めた。厳密な検討が弾きされた。現実との関係が等閑視された。あの悲惨さ。無理もない流れだった。

(3)結びに

非核三原則は、日本が核兵器を使用するという可能性をゼロにする。

しかし、日本が核兵器を使用される可能性を、おそらく増大させる。

同時に、日本が核兵器以外の攻撃をされる可能性を、おそらく増大させる。

唯一の被爆国(原爆を使用された国)であることから導き出された非核三原則が、核兵器を使用される可能性を高めているという状況。ここの矛盾がある。

地球上に核兵器がある限り、核廃絶運動すらも、核戦略の一環である。

核廃絶運動は、どこかの国の核の優位性の維持・増大のための、極めて核戦略的活動である。

ウクライナは、核兵器を保有していた。

しかし、核兵器を放棄した。

保有していたら、ロシアは軍事攻撃をしなけなかったと推測できる。

また、プーチン大統領は、核兵器の使用をちらつかせて、状況を自国に有利に運ぼうとしている。

核兵器の威嚇は、極めて有効であることが、現実に示されている。

日本に対して、核兵器をちらつかせての脅しがされたら、やはり怖いだろう。

相手の要求を呑むしかなくなる。

最大威力の兵器の保有とその数量が、国家の力の最終的な裏付けになる。それは、国家の立場に直結する。

非核三原則を神格的ドグマの地位から解き放って、現在の世界の防衛の実情を広く検討し、日本の安全を守る途を考える・議論することが、遅まきながら必要となっているのではないか。

 

この動画を視聴しての感想を、いくつか記しておきたい。

ユーチューブ上には、数えきれないほどの「いつも何度でも」がある。

 

もちろん作曲者である木村弓氏が歌うものが別格なのだが、そのほかにも、多くの人に聴かれている名演がある。

 

今日は、その中から、厳選した2つをご紹介しよう。

 

まずは、こちら。

 

2つ目は、こちら。

 

どちらも、この世に天使が舞い降りて来て歌っているような歌声だ。

 

いずれも10年以上前の動画だが、いつも何度でも聴きつがれてきた名演となっている。

私が、ずっと気になっていたこと。

 

ずっと気になっていたというのはオーバーだけど、定期的に気になっていること。

 

それは、「おこなう」を漢字で書く場合、どう書くかという大問題。

 

これについては、「行う」が原則だけど、「行なう」でもよいという風に理解している。

 

この問題が私の前にクローズアップされたのは、大学の2回生の時の、ドイツ語の授業だ。

 

難しい(又は単位取得が難しい)と評判だった教授の授業。

 

オペラの内容を、日本語に訳して行くという授業だった。オペラは「ボエーム」だったように記憶している。

 

その際、教授とある生徒の間で、「おこなう」を漢字でどう書くかが話題になった。

 

その際、教授とその生徒の間で交わされた会話の中に、「行う」でも「行なう」でも問題ないけど、「行う」で書く場合、「行った」と書いたら、「いった」なのか「おこなった」なのかが分からないという趣旨の話があった。

 

私は、これを聞いて、「ああ、なるほど」と思った。

 

その後、私は、「おこなう」と書く場合は、どの活用の場合でも、「な」を書くようになった。

 

行政書士になった後、私があるチラシの原案(「行なう」という文言がある)を作った際、ある先輩が『「行う」であって、「な」はいらないよ。』とアドバイスをくださった。

 

私が事情を説明しようとすると、「あ、聞く気がないなら、別にいいよ。」というニュアンスで「あ、いいよ。」と言われた。

 

「な」を付ける派は、肩身が狭い。

 

法律の条文などでも、基本的に「行う」という表記であるようだ。

 

たとえば、民法をみると、多数登場する「おこなう」は、すべて「行う」と表記されている。

 

一例を挙げると、98条2項本文は「・・・一回掲載して行う。」となっている。

 

民法には、「行った」の表記も4ヶ所ある。これらはすべて「おこなった」と読む。

 

文脈から、「いった」と読み間違う危険はない。

 

しかし、文脈を考えるという負担があることになる。

 

私が「行なう」と表記するのは、どの活用形態になっても、たとえ「おこなった」と書く必要が生じたときも、読み手に迷いや負担を生じさせないためという親切心が動機だ。

 

しかし、親切心というものは、有難迷惑と受け取られる危険が大きい。

 

小さな親切、大きなお世話という言葉もある。

 

ちなみに、行政書士法では「行なう」になっている。

 

18条の6「・・・その行なう業務について勧告することができる。」

 

なぜ、「行う」ではなく、「行なう」なのか?謎である。

 

この世のすべての「おこなう」が「行なう」と表記される日まで、私の闘いは続く……。

 

ちなみに、民事訴訟法では「行う」となっている。「行った」は一箇所のみで、「おこなった」と読む(203条の3第1項)。

 

会社法でも「行う」である。「行った」も多数ある。すべて「おこなった」と読む。

 

刑法も「行う」であり、「行った」はない。

 

刑事訴訟法も「行う」であり、「行つた」は2カ所のみ(20条6号と262条1項)。いずれも「おこなった」と読む。

 

憲法も「行う」である。ただし古いから「行ふ」「行ひ」という表記になっている。「行つた」という表記は一箇所だけである(51条)。「おこなった」と読む。

 

こうしてみると、圧倒的に「行う」が主流となっていることが分かる。

 

分が悪いな……。

ユーチューブを徘徊していると、コメントの中に「千と千尋の神隠し公開20年おめでとう」というようなものがあった。

 

1年前のコメントだ。

 

えっ、もうそんなに?と思った。

 

検索して確認すると、この映画は平成13年(2001年)公開だ。

 

確かに去年で20年になっていた。

 

そんなに前のことだとは思わなかった。

 

この映画では、主題歌の「いつも何度でも」が印象的だ。

 

歌詞は抽象的だが、レクイエム(鎮魂曲)のような含意があるとも思える。

 

映画公開の10年後、平成23年(2011年)に東日本大震災が発生した。

 

この歌は、まるで前もっての鎮魂曲のような趣きがある。

 

ユーチューブをみていると、この歌が、いまだに世界で広く歌いつがれ、弾きつがれていることを実感する。

 

このような歌を、時代を超えて受け継がれる歌というのだろう。

 

東日本大震災の後、いたるところで歌われた「花は咲く」。

 

私は、この歌を、いい歌だと思い、時代を超えて受け継がれるだろうと思った。

 

しかし、今、この歌を歌ったり、弾いたりする人は、それほどいないようだ。

 

なんでだろう。不思議だ。

 

「いつも何度でも」の原曲は、極度にシンプルだ。

 

バイオリン用のアレンジも、多数出ている。

 

バイオリン独奏用のアレンジは、出ているのだろうか。

 

あまり、見かけないような気がする。

 

いろいろな面から、バイオリン向けの編曲が難しい曲だと思う。

 

たとえば、一番最初の音がバイオリンの一番低い音Gよりも一音低いFである。

 

これをそのまま弾くには、G線を一音低く調弦しないといけない。

 

やってできないことはないだろうが、私はやったことはない。

 

(ジブリのカントリーロードの中で聖司くんが弾くカントリーロードが、普通の調弦では弾けないことで有名だ。G線を低く調弦して弾いている猛者もいるようだけど・・・。)

 

伴奏は、分散和音であり、メロディと重奏できるように編曲するのは難しいだろう。

 

このような事情で、バイオリン独奏用の決定版の楽譜は出ていないと思う。

 

もしいいのが出たら、耳コピで一瞬で広がるだろう。

 

とはいえ、サビ以外の部分は、メロディだけでけっこうコードが伝わるから、重音はいらないかもしれない。

 

バイオリンは、基本、メロディだけを弾く楽器で、一台で完結しない。

 

伴奏がないと、間延びした感じになる。かといって、独奏用に編曲をするのも、制約が大きいので、うまくいかないことが多い。

 

こういうところが、一台で完結することが多いピアノやギターがうらやましく見えるところだ。

 

しかも、楽器自体、演奏の難易度高すぎて、習い事にはお勧めできないと、経験者として断言できる。

 

やっぱ、趣味で習うには、ピアノやギターがいいと思う。

 

そして、私がこれまで生きて来て、つくづく実感することは、次のことだ。

 

簡単な楽器なんてない。楽器は、どれも難しい!

ロシアがウクライナを侵略している。

 

これに対し、世界の各国から、制裁が加えられることになった。

 

日本も、いくつかの制裁を発表した。

 

そして、SWIFTからの排除を行なうことを、欧米が決定したそうだ。

 

私は、このSWIFTというものを、初めて聞いた。

 

スウィフトといえば、ガリバー旅行記の作者がジョナサン・スウィフトであることが浮かぶのみだ。

 

このSWIFTというのは、国際銀行間通信協会のことだそうだ。

 

決裁の手段を提供しているそうだ。

 

これから排除されると、大ダメージがあるそうだ。

 

本当に、そんなダメージがあるのだろうか。

 

また、制裁を課している側にも、痛みを伴うそうだ。

 

私が願うのは、この侵略に反対するすべての国が、即時に、最大の制裁をロシアに課することだ。

 

「最大の」がミソだ。少しずつでは、効果がないだろう。最初にドカンと最大のものをしないと。

 

日本にも、ダメージがあるだろう。

 

日本人は、その苦難に耐える用意がある。

 

正直、コロナのダメージの後にまたダメージが来るのは、相当きついが・・・。

 

でも、ウクライナはロシアを挟んで、日本の1軒向こうの隣りである。

 

日本が侵略されないように、国民は最大限の協力をするし、我慢もする。

 

ウクライナは主権国家である。

 

自らが信用できると判断した国と安全保障のための関係を結ぶのは、当然の権利である。

 

ロシアが選ばれなかったのは、ロシアに信用がないからである。自分が悪いのだ。

 

それなのに、このような侵略行為に出た。これを正当化することは不可能である。

 

ウクライナは、核兵器を手放したそうだ。

 

その結果が、これだ。

 

日本も核武装をすべきであると説かれていた田母上俊雄氏は正しかったんだなとしみじみと感じるところだ。

ロシア軍がウクライナを侵略している。

 

NATO(北大西洋条約機構)加入国の増加を阻止するためにロシアが軍事行動を起こした。

 

私は、このロシアの様子を見ていると、ストーカー殺人事件をみているように思う。

 

自己の悪性の自己証明とでもいえるような状況だと思うのだ。

 

ある男性がある女性にふられたとする。

 

その男性はストーカー化し、その女性を殺したとする。

 

ストーカー殺人事件。

 

このような事件が起こると、決まって見られるのが、その女性が最初にその男性をふったのは正しかったという感想。

 

たしかに、ストーカーになって殺しに来るような男を断ったのは、見る目があったということになる。

 

別の角度から言うと、その男性は、そのような行動をしたことによって相手が正しかったことを証明したことになる。

 

ロシアは、嫌われている。信用されていない。

 

だから、ロシアの近くの国がNATOに入ろうとする。

 

それが気に入らないと武力で侵略し、人を殺す。

 

余計嫌われる。余計信用をなくす。

 

そして、「ああ、やっぱり、ロシアは信用ならない。NATOに入りたい」と思われる。

 

すると、ロシアはますます軍事行動を起こす。以下、無限ループ。

 

ウクライナがNATOに入ろうとしたことによってロシアが起こした行動は、ウクライナのNATOに入りたいという考えの正しさを証明した。

 

正しいことを無理矢理妨げるには、暴力に頼るしかない。

 

ストーカーのような行動を続けるロシア。

 

人々の心は、どんどん離れていくだろう。

子供時代、家にステレオが一台あった。

 

onkyo(オンキョー)というメーカーのステレオだ。

 

シテレオの側のケースには、レコードが入っていた。

 

たくさんというほどではないけど、それなりに枚数はあった。

 

その中には、父のそろえたクラシックのものもあり、他方、母が買った加山雄三のものもあった。

 

クラシックの中には、今でも覚えているものがある。

 

カラヤン指揮のバッハのブランデンブルグ組曲4~6番。これは名演だ。

 

ジャン・ピエール・ランパルがフルートを吹いているモーツァルトのフルート四重奏曲もあった。これも名高い演奏だ。

 

しかし、中には、曲があったのは覚えているけど、演奏者を忘れてしまったものもある。

 

それが、バッハのバイオリン協奏曲集だ。

 

バッハのバイオリン協奏曲は3曲ある。

 

①第1番(イ短調)と③第2番(ホ長調)と、③2つのバイオリンのための協奏曲(ニ短調)だ。

 

そのレコードには、この3曲が入っていた。

 

けど、誰の演奏かは、記憶のかなたに消えてしまった。

 

ジャケットの感じは、おぼろげ覚えている。

 

演奏家の写真ではなく、楽器の写真でもなく、古いヨーロッパ風の、明るい木々の絵のような図柄だったと思う。

 

今さら、確かめるすべもないし、確かめようともしなかった。

 

ただ、人生の初期に聞いた曲の雰囲気は、今でも、かすかに残っている。

 

特に①の第2楽章の荘重な感じとか。

 

おととい、バッハのシャコンヌをユーチューブでいろいろ聞いていると、カール・ブッシュというバイオリニストの演奏がお勧めに出た。

 

聞いてみると、まぁまぁいい演奏だなと思った。最後までは聞かなかった。

 

昨日、お勧めに、カール・ブッシュ演奏のバッハのバイオリン協奏曲ホ長調が出た。

 

何の気なしに聞いてみると、「あ、これって、あれかもしれない」と思った。

 

音の感じ、演奏の雰囲気が、あの謎のレコードのものと似ていると感じたのだ。

 

感覚だけが根拠だから、なんとも言いようがない。

 

ちょっと細かいニュアンスが違うような気もするけど、全体として、雰囲気が断然似ている。

 

同じような時代の同じような演奏だから、似ているのか、それとも、同じ演奏だから似ていると感じるのか。

 

ユーチューブ検索して、カール・ブッシュ演奏のバッハのバイオリン協奏曲の録音を聞いてみた。

 

全部は出ていないけど、他にも出ていた。

 

これのような気がする。

 

バッハのバイオリン協奏曲は、バイオリンを習っている者にとっては、なじみが深い。

 

まず、③の第1楽章がかなり早期に教材として登場する。

 

そして、①も同じころ、登場する。

 

②は、①と③に比べると、やや難しいので、もっと後になる。

 

私も、①と③は、レッスンで習った。途中でやめたので、②には行かなかった。

 

いろいろと思い出がある曲の、多分あのレコードの演奏。

 

星の数ほどある音源の中から、昨日、私の前に現われた。還ってきた。

 

感慨深いものがあった。