私と学校 | 下関在住の素人バイオリン弾きのブログ

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学校というものは、私が生まれる前からあって、そのあり方については、私は何の関与もしていなかった。


そして、私は、そこに通うことになる前に、そこがどういうところなのか、正確に知らされていなかった。


私には、そこに通うことを拒絶する自由は与えられていなかった。


それは、社会システムとして存在し、子供の私を、強制的に通わせた。


そこには、学年という制度と、クラスという制度があった。


学年という制度は、生まれた日をもとにして、自動的に決められた。


どのクラスに入るかについて、子供の意思は、まったく考慮されなかった。


新学期に学校に行くと、あらかじめ決められていたクラスを知らされ、それは変更などありえない、絶対のものとして、誰もが従った。


その学校に通う子供は、校区という地域的な基準で決められていた。


住所が、その校区に当たると、自動的にそこの学校に通うことになるのだった。


そして、その校区に誰が住むかについては、私には一切影響力を及ぼせなかった。


よって、私は、自分がなんら影響を及ぼせない事情によって、まったく受け身の存在として、特定のクラスに入れられ、その結果、私が触れ合う相手は、そこに意思的な選択が欠落しているという意味で、常に無差別多数だった。


そこには、ルールがあった。


子供は、ルールに従わなければならないことになっていた。


子供には、社会のルールが全部分かるものではないことから、ルールは不明確なものだった。


ルールが不明確であることの原因はそれだけではない。


かなり大きな部分、担任と呼ばれる教師の気まぐれな意思から生じるものだという事情が、そのルールを予測不能なものとしていた。


気分次第というやつだ。


ここで、担任という存在が出てきたので、担任を初めとする教師について触れたい。


子供にとって教師とは、「とにかく何か理由があって、学校にいる大人」だった。


担任は、「とにかく何か理由があって、教室にいる大人」だった。


子供は教師を「先生」と呼ぶことになっていた。


そして、ここでもまた、教師の選択については、子供の意思は、まったく顧慮されなかった。


校長先生や教頭先生という偉い先生がいるということは知っていたが、学校の人事のシステムは、子供からは、やはり大部分は見えなかった。


私の場合、1,2年は同じ教師だったが、あとは1年ごとに変わった。


今でも、その教師の名前は覚えている。


1,2年はA先生という女性教師。途中で結婚し「T先生」になった。普通の先生だった。


3年はM先生という女性教師。すっごくいい先生だった。


4年はT、5年はA、6年はIという、いずれも男性教師だった。


学校には、ルールがあると書いた。


教室内には、子供同士で人間関係が生まれ、そこに子供独自のルールが生まれた。


それは、主に力関係を直接の源とするルールだった。


力関係というのは、曖昧な表現だが、要は暴力や脅迫によってつくり上げられた関係だった。


暴力や脅迫を行なう側が、権力者であり、ルールを決める側だった。


そのルールの中には、その実態を教師に知らせないためのルールが組み込まれていた。


そこで、その子供のルールは、表の学校システム、教師のルールとは別個に、かなり独立して、存在していた。


まれに、教師が知るところとなり、「学級会議」が開かれたりしたが、それはあくまで例外的事象だった。


教師は得々として、無知な権力者たる姿をさらしていた。


それは、教師にとっても利益になるようだった。


なぜなら、「問題を知らない」ということは、教師にとっては「問題がない」ことであり、「自分は仕事をうまくやっている」ということと同義だったからだ。


そして、問題を知ってしまったときは、自分以外にその原因を求めるのだった。


子供は、無差別にあるクラスに入れられると書いたが、それは自動的に、質の悪い子供も、入って来るということだった。


何も、質のいい子供だけに会うようなシステムがいいというわけではない。


ある程度までの子供なら、一緒にやっていける能力を身に付けるために、いいだろう。


しかし、あまりにも質が悪い子供も、何の抑制もない状態で入って来るとしたら、そこがどういう状態になるか、馬鹿でも分かる。


馬鹿でも分かることが、教師や学校制度の運営者には、分からない。


こうして、学校は、無法地帯となる宿命にある。


大人が、毎日、地域だけを基準に、ヤクザや刑務所の受刑者も通う場所に通うことになったら、どうなるだろうか。


それを、子供に平気でやらせているのが、この社会だ。


学校は、授業の実施を、主な目的としているようで、子供にとっては全体像の見えない計画に従って、授業が行なわれていた。


そもそも、子供からしたら、学校自体のもつ目的そのものが、不明だった。


その授業を行なうために、教科書というものが渡された。


また、学校には、ランドセルというもので、教科書などを持ち帰りするという、冷静に考えると根拠不明な決まりがあった。


祖父母が、ランドセルをプレゼントしてくれた。


そのランドセルは、革製だった。


他の子のものとは、感じが違った。


今になると分かるが、その理由は、他の子がもっているものは合成皮革で、私のは、本革だったからだ。


その祖父母の気持ちのこもったランドセルは、卒業時には、ぺしゃんこになっていた。


道路で、教室で、いじめっ子に蹴られ、踏まれ、乗られたからだ。


もちろん、すり傷だらけだったが、さすが本革、壊れはしなかった。


祖父母のことだ。うんと奮発して、高いのを買ってくれたのだ。


そうして、卒業した私は、なぜあの場所に通わなければならなかったのか、なぜあれほどのひどい目にあったのに、誰ひとり責任をとることも謝ることもなく、何事もなかったかのようになっているのかについて、苦しみ続けることになった。


最近、自分が昔通っていた小学校の名前で検索した。


すると、その小学校のホームページが表れた。


何事もなかったように、本当に何事もなかったように、そこは今も学校として存続しているようだった。


それは、悪魔が善人の顔をして、子供をかどわかしているようなものだ。


おりしも、9年前の小1女児殺害事件で、32歳の無職の男性が捕まった。


今日は、その男が「わいせつ目的だった。いたずら目的だった」と供述しているという報道が続いている。


その見出しを見て、私は感じる。


そもそも学校が、いたずら目的ではないか。(わいせつに限らない広い意味のいたずらだが)


いたずら目的で、教師が子供を学校に連れ込んでいるのだ。


容疑者は「騒がれたから殺した」と供述しているらしい。


本当のことを言うと、騒がれたと言うのは、学校も同じだ。


それに、容疑者が猟奇的であると、書き立てられている。


しかし、そもそも学校が猟奇的である。


つまり、この容疑者は学校なのだ。