【 高崎達磨 】 | 徳川わ廣 のブログ

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御上 徳川わ廣
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「高崎だるま(群馬県高崎市)」
日本史跡研究会々長blog紹介
http://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14641922.html
2017/2/4(土) 午後 8:55


書庫各地の伝統工芸品



 天明末期(1787~1789)、少林山達磨寺の住職が、中国僧の心越禅師(達磨禅師)の描いた一筆達磨像を基に木型を作成し、これに紙を張って天明の飢饉によって困窮した農民たちの副業として作成させたのが起こりであるとされるが、近年では、寛政年間(1789~1801)、豊岡村の山縣友五郎が作成を始めたとする説が有力視されています。



 このため、「高崎だるま」と現在では呼ばれていますが、昭和30年(1955)1月20日、旧豊岡村が高崎市と合併するまでは「豊岡だるま」と呼ばれていました。

 『高崎談図妙』には、文政12年(1829)、高崎田町で既にだるまが街中で販売されている様子が版画で描かれており、だるま市のルーツとなるものがこの頃あったことが近年発見されました。

 「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と当時謳われたほど、高崎田町は当時大変賑わったといいます。

 毎月5日と10日をごとうの日と呼び、月6回の市が開かれていました。

 特に正月10日を初市と呼び、市神さまを祀り、街を挙げて祭りと取り組んだという。


 昭和7年(1932)、木戸忠太郎が『達磨とその諸相』という達磨研究の集大成を刊行。その中には当時のだるま市の分布として高崎田町初市の記述があります。

 平成28年(2016)までは、達磨寺少林山で行われていた正月のだるま市ですが、平成29年(2017)からは高崎駅前で新たな形のだるま市としてスタートしました

 今後少しずつではあるでしょうが、正月1日・2日の風物詩として定着していくのではないでしょうか?

 ※少林山達磨寺大祭でもこれまでとは規模は縮小しましたが、境内でだるまは販売されています。しかし、これまでのように露店が出てTVニュースで中継されるような賑わいではなくなってしまいました

 さて、高崎だるまの特徴ですが、上毛かるたに「縁起だるまの少林山」と謳われているように、まゆは鶴、ひげは亀を表し、縁起の良さが代表的です。お腹には福入、両肩には家内安全・商売繁盛・大願成就などの願いを金文で書かれています。

 そして、高崎だるまと一括りにしていますが…その屋号によって微妙にだるまの表情が異なりますこれがあまり知られていない鼻高情報

 全国には多くのだるまがありますが、その代表格として名高いのが「高崎だるま」今回の写真はよくだるま市で見かけるだるま以外のものもあるんだよとして、達磨禅師のだるまさんをしてみました。

 伝統工芸品の一つのジャンルとして『だるま』を分類できるほど、各地にだるまは多いですから収集してみるのも面白いかもしれません。

(参考資料)
                                                                             ふるさと玩具  井上重義  平凡社

第3回 高崎だるま展 配布パンフレット
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わ廣文)


女達磨 歌川国貞
東京図書館蔵