17S睦月九日)
〔わ廣文〕 鎌倉時期の遊女 虎
「吾妻鏡」因り
曽我十郎祐成(すけなり)と弟 曽我五郎時致(ときむね)は
父の仇討ちを目指し妻女を持たなかったが 兄十郎祐成には 遊女虎 を愛人としてゐた、
源頼朝の健久4年1193s皐月廿八日に「富士の牧狩り」か行われた時に
曽我兄弟は父親の仇を襲った、
元から云えば親族内紛、後継ぎと為った婿の資産横領から始まる、
工藤祐経(すけつね) は 曽我兄弟祖父 に領地も 妻も奪われ、遺恨をかえすべく機会を待ち
郎党に襲わせ 曽我兄弟 の父親を討ちはたしを為したが、
頼朝の富士の牧狩りの随行の最中
遊女と床を共にしている時に曽我兄弟に忍び込まれ
リベンジに為ってしまった、
「吾妻鏡」因り
曽我十郎祐成(すけなり)と弟 曽我五郎時致(ときむね)は
父の仇討ちを目指し妻女を持たなかったが 兄十郎祐成には 遊女虎 を愛人としてゐた、
源頼朝の健久4年1193s皐月廿八日に「富士の牧狩り」か行われた時に
曽我兄弟は父親の仇を襲った、
元から云えば親族内紛、後継ぎと為った婿の資産横領から始まる、
工藤祐経(すけつね) は 曽我兄弟祖父 に領地も 妻も奪われ、遺恨をかえすべく機会を待ち
郎党に襲わせ 曽我兄弟 の父親を討ちはたしを為したが、
頼朝の富士の牧狩りの随行の最中
遊女と床を共にしている時に曽我兄弟に忍び込まれ
リベンジに為ってしまった、
兄弟は仇の工藤祐経(すけつね)をば討ち取るが、
兄 十郎はその場で新田忠常に返り討ちにあい死ぬ
弟 五郎 は捕縛され家臣を殺された源頼朝の尋問の後に処刑される
刀の試し切りにも使われた
愛人であった 虎 も尋問されるが放免となり、
此処因りから、
遊女 虎 の物語伝説が起きた
弟 五郎 は捕縛され家臣を殺された源頼朝の尋問の後に処刑される
刀の試し切りにも使われた
愛人であった 虎 も尋問されるが放免となり、
此処因りから、
遊女 虎 の物語伝説が起きた
命を賭けて御人情
葛飾北斎) 妾
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虎御前姿見の井(長野県北佐久郡立科町)
2017/1/9
書庫長野県の史跡
【虎御前姿見の井】
日本史跡研究会々長blog
http://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14597160.html
所在地: 北佐久郡立科町牛鹿
虎御前は相模国大磯の遊女・虎である。
建久4年(1193)、曽我十郎祐成の菩提を弔うために19歳の若さで出家し、善光寺・虎石庵に籠り仏事の修行をしたことが『東鑑』・『曽我物語』に記されている。
明治元年(1868)、「北に虎御前あり、その形あたかも虎の伏するに似たり、是、虎の霊なり。側の沼に六角の井あり、虎が姿見の井、または、髪水と称す」との記録があるが、虎御前が善光寺からこの地を訪ねたという確かな記録は見当たらない。
一説では「虎御前の従者、蔦女がこの地を訪れ居を定めたことがあり蔦石」といわれた石があったとも伝えられるが確証に乏しいようだ。
『曽我物語』は、兄弟を取り巻く多くの女性たちの悲しみの物語ともなり、その後、能や歌舞伎・浮世絵など江戸庶民の心を掴んでいた。
虎御前にまつわる伝説や遺跡は全国各地に存在しているが、善光寺信仰と無関係ではないように思われる。善光寺の勧進聖・念仏聖・比丘尼などの口伝によって全国各地へと広まり、各地で虎御前鎮魂遺跡・伝説が残されていったと推測されています。
とはいえ、この「虎御前姿見の井」は十郎祐成を供養するため善光寺に向かう途中、井戸で姿を見たのでは?とも想像される史跡ではないだろうか。
(参考資料)
現地案内板