【大久保利通の墓(港区)日本史跡研究会長blog紹介】 | 徳川わ廣 のブログ

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御上 徳川わ廣
Nihon koku Tycoon
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大久保利通墓(東京都港区)
2016/5/19

書庫東京都の史跡


 所在地: 港区南青山2 青山霊園内(2区1種イ15~19側1番)





 明治維新の元勲であり、西郷隆盛・木戸孝允と並び『維新の三傑』と称され、『維新の十傑』(小松帯刀・大村益次郎・前原一誠・広沢真臣・江藤新平・横井小楠・岩倉具視)の一人である、大久保利通については詳細は必要ないでしょう。



 ということで簡単に略歴を

 文政13年(1830)9月26日、薩摩に生まれる。大久保家の家格は御小姓与であり下級藩士であった。
幼少期の利通は胃が弱く武芸は得意ではなかったが、討論や読書など学問は抜きんでていたという。

 弘化3年(1846)、藩の記録所書役助として出仕するも、嘉永3年(1850)、お由羅騒動(島津久光派と斉彬派の対立)で父とともに謹慎処分となり、大久保家は極貧状態となっている。この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最古のものとされています。

 嘉永6年(1853)、島津斉彬が藩主となると謹慎が解かれ、復職し御蔵役となっている。

 その後、利通は斉彬・久光のもとで活動し藩政に参与。その過程で公武合体路線から武力討幕路線へと指向することとなる。


 明治維新後の明治2年(1869)、参議に就任し、版籍奉還・廃藩置県など中央集権体制確立を行った。

明治4年(1871)、大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊。


明治6年(1873)、内務省を設立し、初代内務卿として学制・地租改正・徴兵令などを実施し、殖産興業政策を推進した。

明治7年(1874)、江藤新平によって「佐賀の乱」が勃発すると、自ら鎮台兵を率いて鎮圧。また、台湾出兵が行われると戦後処理の全権弁理大臣として清と交渉している。


明治10年(1877)、西南戦争の際には京都にて政府軍を指揮している。




明治11年(1878)5月14日、石川県士族の島田一郎・長連豪・杉本乙菊・杉村文一・脇田巧一および島根県士族の浅井寿篤によって紀尾井坂(正確には清水坂)において暗殺された。

『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によれば、大久保は全身に16箇所の傷を受け、そのうち半数が頭部に集中していたという。
事件後に駆け付けた前島密は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。

 5月15日、大久保に正二位右大臣が追贈され、17日に葬儀が行われた。大久保邸には1200名が会し、費用は4500円余と近代日本史上最初の国葬級葬儀であった。


 大久保の死後、8000円もの借金が残されており(私財を投じて公共事業を行っていたため)、遺族が路頭に迷うのは忍びないとの配慮から、政府は協議の結果、生前に鹿児島県庁に学校費として寄付していた8000円を回収し、さらに8000円の募金を集め遺族を養うこととした。

 大久保の墓は青山霊園に埋葬されているが、故郷・薩摩では西郷隆盛を敵に回したことで冷ややかな目で見られていたために、近年まで地元で埋骨出来なかったためである。


 奇しくも大久保が暗殺された5月14日、散策途中で青山霊園を訪れました。墓前には花が供えられていました。

大久保利通……維新後の国策の対立から盟友・西郷との対立があり、地元鹿児島での評価は低かったわけですが、日本史上最高位の政治家であったことは紛れもない事実です。


 清廉潔白なその政治姿勢。近年の政治家には見習うべき人物ではないでしょうか?

幕末維新の時代を駆け抜けた偉人たちのような人々。現在の日本に出てこないんでしょうかねぇ


 政治家のどなたも国民目線ではなく、自分自身の栄光栄華のために政治を行っているように見えるのは私だけでしょうか?

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