書庫洛中思案
(憲正会館 麻生太郎氏書)
16s 皐月十九日
日本史跡研究会長因り 二日間 東京へ行き史跡も回る、来ないかと言うので、応じる
史跡研究会長は先月胆石手術をばし 順調に回復しているようだ 良かった
紀尾井町 赤坂見附門跡 櫻田門 千代田城の内堀外堀を半周するかたちに為る
中食は森の洋食松本楼で酒席とした
麹町で神奈川因りの研究会の淑女と会い日テレ側で会長と合流、専門家居ると往時の地形の事も良く判る、
「紀尾井坂」
まずは紀尾井坂に
明治政府元首時 大久保利通 馬車で通り暗殺さるゝ場所、
今の上智大学の坂 盟友だった 西郷吉之助隆盛 をば西南戦で倒した 翌年明治十一年、
暗殺計画を察知し、道を変えたが刺殺された
(紀尾井坂)
中食をば取った午後に憲正会館に寄せた、此処は彦根藩井伊家上屋敷跡だった、
憲正會舘で
吉田茂の録音声を聞き 生存年月日観ると1968s とあり、
麻生太郎氏と初の対面は此の吉田茂の没する頃だなと、思った
まだ、麻生氏議員に為る前だ、
大久保利通の息子が笠間牧野家へ養子となり (牧野伸顕)
そして吉田茂と婚姻に因り麻生太郎氏生まれる
憲正会館の一階に近年歴代総理の書が展示されており麻生太郎総理大臣時の書が際立ってすばらし、
漫画好きだけにヴィジュアル感覚が良いね 芸術だ
近いから誉めてんぢゃねひ、
(ホテルニューオータニ庭園)
紀尾井町の 此の辺り来ると、こちらは子より徳川事で苦悩をば思い出したりする、
従兄に頼みに頼まれ 寄せて、
人々のいる前の披露目で 三笠宮寛仁殿下仲介で慶喜公家当主徳川慶朝氏と有ったりしたのは八 九歳頃、
茫然であった
ホテルニューオータニは元井伊家屋敷跡地で庭園は見学ができる、
庭を巡っていて、
しとつの灯籠が気になった
井伊掃部頭寄贈(かもんのかみ) 東叡山と彫り込まれている、
徳川菩提寺寛叡寺因り貰ったのか 明治期に盗って来たのかね?
加藤清正邸 から 井伊家邸に変わり 明治は伏見宮屋敷だそうだ
オータニ前は赤坂プリンス
紀州徳川家屋敷跡、江戸時代 に千代田城外堀を一門で堅めているのが良く判る
赤プリ紀州藩邸横の弁慶橋をば進むと赤坂見附門跡 石垣の一部壊れており内部の小石を見れた
追記:弁慶橋は明治になってから神田より移したもの、
江戸時代は赤坂見附を通らなければ進めないようになっていた
(赤坂見附門跡)
「平河天満宮 」(番丁 麹町辺)
太田道灌は 平河江戸城 を拠点のしとつとしてゐた、
天神の夢を見て江戸城に天神社を建立
徳川家康が江戸入城により改築の為に
天神社を地名 貝塚の坂に移築
これが今の「平河天満宮」
太田道灌 徳川家康も共に奉られている
道灌の頃 此の貝塚は坂下に川が有り
道灌支配の何か砦のような物も有ったのではないか?
関東武士達に絶大な尊敬をばされ、
道灌のもとで戦う事を誉れとした国人達が集まれば数千騎の軍勢に為るが
太田道灌の直下は二百騎ぐらいではないかと
平河天満宮を見分中に皆さんと話した
道灌候は紳士だった、滅ばす事なく制圧し、道灌の力の元で武士達は話し合ひ、結論が出た
太田道灌を殺そうと、
叉、関東混乱となったその時に
今川家に一人の男がゐた 北条早雲(伊勢新九郎)
早雲は串刺し王となり平和への挑戦を始める、
(櫻田門)
「櫻田門」
松平定信子孫達は強力な派閥を構成していたが、窮して井伊掃部頭直弼を引っ張り出した
子孫としても慚愧に絶えないがこちら側の事である
千代田城公用門は幾つか有り
こちらは良く覚えぬが、
櫻田門は公用門で藩主が登城時には家臣はその前の広場で毛氈(もうせん)をばしき 腰かけ殿様 下城を待った
待合御長屋をば使えるのは御三家だけで、御三卿は門内住まいで必要無し
此のあたりは平常(へいじ)は自転車で普段走り抜けるが、
その辺り感覚で手術後の会長歩かせてしまった
面目ない、
松本楼では休日で込み合っていたが入れた、
淑女は本日のお薦めとり、ソースもフライも美味しかったと言ってくれた、薦めてよかった
冷酒は風の如く爽やか
親御様をば共連れしたいと会長も満足してくれた
見たので 皆
帰る
(日暮里 太田道灌像)
(箱根の坂)
「 夏は来ぬ 」
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