姉川古戦場(滋賀長浜市)日本史跡研究会会長blog紹介】 | 徳川わ廣 のブログ

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御上 徳川わ廣
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姉川古戦場(滋賀県長浜市)
2016/5/12
書庫滋賀県の史跡


   【姉川古戦場】


所在地: 長浜市野村町、三田町、東上坂町、西上坂町他

元亀元年(1570)6月19日、金ヶ崎退け口の報復のために軍備を整えた織田信長は北近江に出陣。すると、信長に報復するために出陣してきた六角義賢父子と野洲河原において合戦に及ぶ。(野洲河原の戦い)

六角軍を蹴散らした織田軍の勢いを恐れた堀秀村など浅井家臣が信長に降っています。

6月21日、信長は虎御前山に布陣し、森可成・柴田勝家・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らに命じ、小谷城下町を広範囲に渡って焼き払った



6月22日、信長は無理攻めは危険として一旦弥高(現在の米原市弥高)まで軍を引いています。

 6月24日、信長は竜ケ鼻に布陣し横山城を包囲。徳川家康も合流した。一方、浅井援軍として朝倉景建率いる8000の兵が到着。浅井・朝倉軍は横山城の後詰として大依山(現在の長浜市大依町)に布陣した。

 6月27日、浅井・朝倉軍は陣払いして兵を引いたが、翌28日未明に両軍が姉川を前に布陣した。

 浅井・朝倉軍は兵を野村・三田村二手に分けて布陣。これに対し、徳川勢が三田村に布陣した朝倉勢へ向かい、野村に布陣した浅井勢には信長の馬廻・西美濃三人衆(稲葉良通・氏家卜全・安藤守就)が向かっている。

 午前6時頃に開戦



『信長公記』には「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」という激戦となったが、浅井・朝倉両軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に側面から攻めさせた。

 朝倉・浅井軍は敗走し、織田・徳川軍は1100余を討ち取り勝利した。

 信長は小谷城下まで追撃し、麓の村々を焼き払ったが、小谷城を一気に落とすのは難しいと考え、横山城下へ後退。横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番とした。


 姉川の戦いにおける浅井家の被害は甚大で重臣・遠藤直経や長政の実弟・浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直らを失っている。朝倉家も同様に真柄直隆、真柄直済、真柄隆基らが討死している。


 姉川の戦いの通説は上記の通りであるが、近年通説は見直されています。


 姉川の戦いは浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、大規模なものではなかったとの説が唱えられています。

 合戦後、信長は横山城や虎御前山城に本陣を置き、浅井氏攻撃を継続したものの、最終的に浅井氏が滅亡するのは天正元年(1573)9月1日で三年以上の年月を要していることから、姉川の戦いで浅井・朝倉軍の大敗に終わったとするのには疑問が残ります。

 とはいえ、この戦いがきっかけで浅井氏・朝倉氏の衰退が進んだというのは間違いないであろう。(比叡山延暦寺や石山本願寺の影響で命運が尽きなかっただけであろう)

 なお、姉川の戦いという呼称は徳川氏の呼び方であり、織田・浅井氏では「野村合戦」、朝倉氏は「三田村合戦」と呼んでいた。


  (参考資料)


    復刻 浅井三代記

歩いて知る浅井氏の興亡         
長浜市長浜城歴史博物館 編著       サンライズ出版


    現地配布パンフレット


    現地案内板