【日本史跡研究会日々の徒然・改】会長長谷川氏blog | 徳川わ廣 のブログ

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平成27年度 第1回研修『駿河・遠江史跡巡り』初日 その4

2015/7/16(木) 午後 10:36

書庫研究会イベント
(今回研究会旅行記事 Yahoo!home)

さて、いよいよ今回の研修初日最大の見どころがある島田市に突入
最大の見どころを訪れる前に、ちょっと寄り道


島田代官所(島田陣屋)跡       島田市柳町

 元和2年(1616)、長谷川長盛が島田代官として着任。幕領統治のために代官所が築かれている。

 慶安年間(1648~1652)作成されたと思われる『寛永改 駿河国高附帳・下』には、島田代官として長谷川藤兵衛長勝の名が見え、5500石 他に高八四三貫文と記され支配石高が分かります。

 島田代官の職は、元禄5年(1692)、長谷川藤兵衛勝峯が遠江・川井代官に転任するまでの間、長谷川氏が世襲していました。

 元禄11年(1698)、島田代官所は廃止され、駿府代官・外山五郎左衛門雅国の支配下に置かれ、島田陣屋が新たに設置された。

 元禄15年(1702)、島田陣屋は中泉代官の出張陣屋となり、陣屋支配は幕末まで続いています。


 代官所の遺構は残っていませんが、御陣屋稲荷神社が祀られており、かつてこの地に代官所(陣屋)があったことを偲ばせてくれました

 この御陣屋稲荷神社の参道、風の通り道

になっているようで、そこに水路もあり、とても心地よい風が吹いていましたよ

 さぁ、いよいよ
いよいよ
最大の見どころへと向かいます


 島田市博物館                 島田市河原1-5-50

 島田市の歴史を知るためでもあり、資料を購入するためでもあり、初日研修の最大の見どころを散策するために訪れました。

 また、諏訪原城跡発掘調査現地説明会資料を請求した博物館でもあった
ので、ちょっと思い入れがあり、しっかりと?見学致しました

 でっ、ここを目指したのは……「島田宿大井川川越遺跡」
があるからです

 「島田宿大井川川越遺跡」こそ、今回の研修初日の最大の目的地

 さて、散策開始

  島田宿大井川川越遺跡           島田市河原(1)

 慶長6年(1601)、徳川家康は宿駅伝馬制度を設け街道の整備を行ったが、大井川・安倍川など6つの大河には架橋せず、徒歩での通行(川越し人足による川越)と定めた。

 これは、西国の大名が江戸へ攻め寄せた際の大外堀として、大井川・安倍川を利用したと云える。

 俗に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれ、東海道最大の難所であり、大雨

での増水による川止めとなると、旅人はもとより参勤交代の大名ですら、水が引くのを何日も宿場で待っていた。このため、両岸にある宿場(島田宿・金谷宿)は大いに栄え、飯盛女も多かったという。

 川越しの管理・統制は当初、島田代官や宿場役人の役目であったが、元禄9年(1696)、新たに川庄屋が任命されその役目を果たしています。その後、川会所が設けられ川越し制度が確立しています。

 大井川を渡るには、まず川会所で川札を購入

川札を川越し人足に渡し、人足の肩や蓮台に乗って川を渡った。

                           (島田市指定有形文化財である蓮台)


 川札の値段は、川幅と深さを測って定められていました。
 また、川越し人足の数は島田・金谷それぞれ350人と決まっていましたが、幕末になると650人を超えていたと云います。
さて、「大井川川越遺跡」の散策の模様は……次回に

http://i.yimg.jp/images/mail/emoji/15/ew_icon_a330.gif
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私はウロウロしてました
大井の渡し入口に茶屋が有り
甘酒を喫したり  
夏日の暑気払いに良かった



日本史跡研究会は関東と関西支部が有ります
史跡好きな方も町歩きの好きな方も楽しめる会です、
前日は掛川城も行きましたね
城は山登りになりますねぇ

今回の旅では大東京住みの私は足回りが良い方です

関東方面の方は東京駅で待ち合わせ、静岡へ
新幹線代 ビジネスホテル レンタカー代を入れて私の使った金額は¥39.000