【浅草 合羽橋史跡散歩】講道館創始之寺 洛中思案 | 徳川わ廣 のブログ

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「わ」、と書いてるのは「和」草書由来 徳川家和広は二人いますからね、もう一人は恐竜化石学者さん、

御上 徳川わ廣
Nihon koku Tycoon
(The August sovereingn or Grand Souverain" )

15s 初夏頃


本年季節が進んだので、此の軸を出した
合羽橋から住み替えなければ、出さなかったろう
夏の花と勝手に解釈し 初夏に出している、座敷に居るときは窓など開け放ちでも、視てられるので、
突然の強い風も対処出来るが、
何せ江戸のもの暑い時期でも開け放ちで出掛けられない
ちつと、此よりは 帰宅時に暑い思いをする

御用に出て、上野へ
帰りしなは 稲荷町 合羽橋を通り浅草へ、

何時もの如く
並木 駒形 花川戸  山谷掘りからちょいと上がり、
長い土手をば 通わんせぇ 花魁がお待ちかね
お客さんだよぅ


浮世の人情に至り
真夫と言われし  此の俺が花魁に世話やいて貰ひてひ
なれど、うぅーむ
勝手元も事情がありて
中々 そうは遊かねものだ


稲荷町で喫茶して、交番横の寺の屋根瓦が 目に入った

改めに行く



永昌寺は講堂館柔道の発祥地で、本は読んだことはないが姿三四郎も此処が舞台だったのかも知れない
柔道の父 嘉納治五郎と門弟達がこの寺で稽古を始めた場所

自宅に戻りつつ此のまわり見学をばする事にした
合羽橋 松葉小学校横を通って聖徳寺へ
此所は前の住まいのすぐ近く
聖徳寺は玉川の開発した玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟の墓がある

庄右衛門と清右衛門兄弟は町人とも玉川近辺の農家の者とも言われている
四代徳川家綱公の時に、玉川開削を請け負い 苦労の末に成功した、そして玉川の名を貰った
今も使われる「お江戸、大東京の水の恩人」

手前が玉川庄右衛門  奥が清右衛門



此の通りを浅草へ行くように半町 五十米程行くと
勝海舟の剣の師匠、「島田寅之助墓」と
「漆喰こて絵の長八の墓」が有る正定寺が有る、
明和幼稚園の方が通りが良いねひ、
此の横道を矢先神社へ行くと、神社の前には、徳川慶喜公に付き従い、
勝海舟に「おい、御前さんに頼みがある、俺が命じたら、江戸に火を付けてくれ」と頼まれた新門辰五郎 を組が会社やっている、今でも新門の名だ

追記
正定寺 御亡くなりに為った幼稚園副園長ひろ子先生への悔やみを 若奥さんの坊守に言えたのは良かった 「義母と呼ばずにひろ子先生と読んでいました」との話し、、


見たので


帰る



ちなみに玉川兄弟の子孫が玉川カルテット
水商売をしている


嘘ぢゃ