せっかく前世や過去生の話になったので、私の直近の前世の話をしましょう。

 

 

前回紹介した修行僧の影響か、今生を生きる私には、多少の霊能力が備わっているようなのです。

 

 

これにより、私は自らの前世を霊視することができたのです。

 

 

では、その前世について、紹介しましょう。

 

 

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田舎の山間部に近い郊外。

 

 

実家は八百屋を営んでいる家。

 

 

私はそんな家に生まれたようだ。

 

 

幼い頃から武道をたしなんでいた。

 

 

現代でいう、空手のような武術のようだ。

 

 

成長するにしたがい、日本を取り巻く戦局は悪化し、

世界大戦へと巻き込まれていく様相を呈していた。

 

 

私は、自然と、日本のために戦う選択をした。

 

 

私は、埼玉県朝霞にある、陸軍予科士官学校に入学した。

現在の朝霞駐屯地です。

 

 

私は現在、埼玉県の東武東上線沿線に住んでおり、

この前世との縁を感じずにはいられません。

 

 

この予科士官学校では、1941年から終戦時まで1万5000名の生徒が学んでいたそうだが、私はその中の一人であったようです。

 

 

卒業後、すでに大東亜戦争が勃発していた戦線に加わることになったのです。

 

 

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いくつかの拠点を転戦したのちに、

パラオのペリリュー島に向かうことになりました。

 

 

ペリリューの戦いは、1944年9月15日から11月27日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊とアメリカ軍の陸上戦闘。


アメリカ軍は当初は島を4日で攻略する予定だったものの、最終的に2ヶ月半を要することとなった。 日本軍による、要塞化した洞窟陣地などを利用した組織的なゲリラ戦法に、アメリカ軍は苦しめられ、日本軍の戦死者1万人、米軍側でも1万人超の死傷者を出したともいわれる。

 

 

そんなペリリューの戦いに、若き戦士である私は参戦したのです。

 

 

島全体を要塞化するために、暑い中、数ヶ月もかけて土木工事のような作業に勤しんでいました。

 

 

そして、ついに米軍がペリリューに向かってきていることを知ります。

 

 

私は、どうにも胸躍る思いを抑えきれませんでした。

 

 

やっと戦える!アメ公の野郎をぶっころせる!

 

 

血沸き肉躍っていました。あまり、というか、まったく悲壮感のようなものは、

感じてはいませんでしたね。

 

 

とにかく戦えるんだ!ってことが楽しみでした。

「まだか、まだか、早く来い!」という感じで、米軍を待ち構えていました。

 

 

そして、その日は来ました。

 

 

オレンジビーチとよばれる海岸の水際で、私は白兵戦を戦った。

 

 

Wikipediaにある記述を引用します。

 

アメリカ軍は大損害にも怯まず前進し、陣地を護る日本軍と距離10mの至近距離で激しい白兵戦を繰り広げた。

日本軍は「陣地を守り抜け、一歩も退くな」「撃ち殺せ、やっつけろ」と怒号を浴びせながら、手榴弾を投げて小銃を撃ちまくったが、そのうち、剣道に覚えのある下士官が周囲が止めるのも聞かず、軍刀を手に匍匐前進でアメリカ軍の前線に接近し、アメリカ兵の目の前で立ち上がった刹那に、そのアメリカ兵の首を一刀のもとに刎ねた。

その様子を固唾を呑んで見守っていた日本兵たちは「やった」と歓声を上げたが、その直後、首を刎ねられたアメリカ兵が握っていた手榴弾が爆発し、その下士官も跳ね飛ばされてしまった。

このように、もはやどこが前線かわからないほど敵味方が入り交って、互いの死傷者が累々と横たわり、中には敵味方の死体が積み上がっている場所もあった。

そのような戦場でひたすら両軍兵士は殺し合いをしており、戦場は壮絶を極めていた。

 

 

このような地獄の中で、私は小銃を振るい、米兵に向かって射撃した。

 

 

その刹那、私の首元を銃撃され、たちまち白い砂浜に斃れ込んだ。

 

 

そのまま、意識が薄れていき、やがて、絶命した。

 

 

こうして、大東亜戦争を戦った兵士としての人生は終わった。

 

 

私は、この約40年後、再びこの世に生まれ落ちることになります。

 

 

 

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