正田徳衛  春の境内 10P   キャンバスに油彩 2020年に制作
 
<早春賦>
 
 
最近ラジオで春の歌をよく耳にする。その中でも早春賦は私が特に好きな歌だ。
 
「春は名のみの風の寒さや」で始まるこの歌、ポピュラーだがこの続きを歌える人は案外少ないのではないか?
 
 
 春は名のみの風の寒さや。
 谷の鶯歌は思えど
 時にあらずと声も立てず。
 時にあらずと声も立てず。
 
 氷解け去り葦は角ぐむ。
 さては時ぞと思うあやにく
 今日も昨日も雪の空。
 今日も昨日も雪の空。
 
 
早春の情景を歌っているのだ。
「ああ、まだまだでんな~、うぐいすは寒さに尻込みして鳴けへんし、雪降って葦も伸びてけえへんし…」とまあ、ここまではいい。
 
問題は三番である。三番まで空で歌えるひとはもうほとんどいないのではないかと思う。
 
 
 春と聞かねば知らでありしを
 聞けば急かるる胸の思いを
 いかにせよとのこの頃か。
 いかにせよとのこの頃か。
 
 
普通に解釈すれば人々が暖かい春の到来を待ちわびている心情を歌っているものともいえる。しかし私にはこうにも聞こえるのだ。
 
 
 私は今までこんな気持ちになることはなかった、でもなんだろう、この胸の高まり?
私はこれからどうすればいいの?どんなふうに過ごせばよいの?
 
 
すなわち、この歌は早春の情景になぞらえて、おそらくは十代前半であろう思春期を迎えた少女の心の戸惑いを歌っているようにも思えるのである。
 
作者の吉丸一昌がこの詩にどのような意図を込めて作詞したのかは私には知るすべもない。
しかし少なくとも私はこのような解釈があっても許されるのではと思っている。
 
そしてこの歌を聴くたびに、遠い昔の甘く切ない想いを思いうかべるのである。