今日は生まれた日 | トクチャンのブログ

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【生まれた時分の写真】

 
 
 
 
 
今日、五月の三日は生まれた日なんだいね。
昭和三十一年、五月三日、前橋の日赤病院で生まれたんだと。
その時分の日赤病院は、たしか旧町名で前橋市新町かねぇ。そんで住んでたとこが前橋市本町の国道50号線沿いで、並びに油屋旅館と大盛堂っつぅ本屋があったんさ。
 
はぁ、なから前、そうさなぁ、二十年そこいらは経ったとおもんだけんど、マイバシ(前橋)に行った時に写した写真があるんで見てくんない。
今はまっと変わっちまってると思うよ・・・
 
 
20年以上前に写した住んでたとこのいらの写真・・・
 
 
 
 
住んでたとこの並びに油屋旅館と大盛堂書店があったんだけんど、写真を写した時分にはまだ残ってたんさね。
 
今はどうかなぁ・・・
 
あと国道の向かいっかわの八百屋も残ってたんさ(^^♪
 
 
よく買い物してたんじゃねぇかな、八百助で。
 
 
 
 
 
 
国道の向かいっかわの八百屋
 
 
 
 
 
マイバシ(前橋)に住んでたんは、うんとちっちぇ時分だけだったんだいね。
 
 
そんでも、いまだに忘れねぇで、いろんなことぉおぼいてるよ。
 
 
児童遊園のお猿の電車、ヒコーキ塔、回転木馬・・・・
敷島公園のボート乗り場・・・
前橋祭りか七夕の日の夜店・・・
初めて漫画映画「孫悟空」を見た駅近くにあった映画館の文映・・・
昔の前橋駅・・・
 
 
 
昔の記憶はいくらでも湧いてくるよね・・・
 
 
 
 
昔あった映画館の文映・・・画像はGoogle検索で
 
 
 
 
ちっちぇ時分の前橋駅・・・画像は前橋新聞から
 
前橋駅にゃ、思い出がいくらもあるんさ。
 
 
駅舎左の細なげぇ建てもんに荷物を上げ下ろしする滑車が付いてたんさ。
その滑車の音が「キュルキュル」って聞けぇて、その音を聞くんが楽しみだったんさね。

 
 
 
 
 
そんな思い出ぎっしりのマイバシ(前橋)から、親の都合で、ある日から女親の実家で暮らすことになったんさ。
 
 
父親とはハァそれっきりさ・・・・・
 
 
 
そんだけんど、女親の方のオジイサン、オバアサン、女親の兄弟のオジゴだのオバゴなんかがうんと良くしてくれたんで、18で郡馬を出るまでそこで暮らしたんさ。
 
 
その時分のトクチャン(^^♪

 
 
 
そこが第二の故郷なんさ・・・
 
 
 
つってもさ、故郷って何だい?
 
って、いまだに思うんだいね。
それに代わる言葉がねんで、それを使ってるだけだとおもんさね。
自分の好きなものに囲まれて過ごした空間とでもゆうんかねぇ(^^♪
 
 
僕が好きなものっつやぁ、やっぱり、目に見える周りの景色、木々、山、川、鳥、獣、空、雲、そんな森羅万象的なもんだいね。
 
 
 
そうゆう事を含んだ「故郷」が入った短歌を生まれた日にちなんで詠んでみたんさ。
 
 
 
 
住んでたところの集落のはずれにある石仏
 
 
 
ふるさとの
石仏見て(いしぼとけみて)
ほっとする
いつのまにやら
今浦島に(いまうらしまに)
 
 
 
僕がほんとにほっと出来るんは、もうオジイサンもオバアサンもいなくなった群馬の片田舎で、子供のころも、なんとなく居心地が良かったとこ(ところ・場所)なんだいね。
 
住んでたとこも、周りは見渡す限りの桑原(桑畑)が広がってたけんど・・・
今はハァ桑も植わってねぇし、屋根にヤグラを上げたでっけぇ養蚕農家も建て替えられてるし、小学校も、中学校も移転したり、別な施設に変わってるし・・・・
 
群馬へいぐっつったって、今じゃ墓参りだけだがね。
 
 
 
そんで群馬へ行った時に、決まって寄るとこが、そうゆう子供の時分から居心地が良かったとこなんだいね。
 
 
 
そんな、僕が居心地のいいと思う田舎の景色でも見てくんない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムラはずれ・・・三つの集落の境界がある三本辻
 
 
 
 
 
 
 
 
あの時分は、三本辻のまわりの畑も、あたり一面が桑原(桑畑)だったんさ。
 
 
 
 
ヤマ・・・ヤマっつんは平地の雑木林のことをゆうんさね
 
 
 
ヤマも今じゃ公園化されちまって、下に生えてたシノ(篠)だの萩(ハギ)なんかは、みんな引っこ抜かれてたい。
 
小学生時分によくこのヤマであすんだんさね。
 
 
 
 
 
 
川の土手から眺めたヤマ(雑木林)の方
 
 
 
 
 
遠くにめぇる山々は・・・右の方から子持山、小野子山、草津の方の山々、榛名山
 
 
 
 
上州の神の山、群馬県人の誇り【あかぎやま】
 
 
 
 
 
廃寺になったお堂近くに置かれた石塔
 
 
 
 
浅間山の天明噴火前まで流れてた利根川本流跡の田んぼ・・・段差の下が利根川だった
 
 
 
同じく利根川跡の田んぼ
 
 
 
 
鎮守様
 
 
 
 
昔、遅霜の被害で新芽を出したばかりの桑が全滅したために、死んだお蚕を供養した塚
 
 
 
 
ちっちぇ時分まで、写真を写してる辺りにはご神木で樹齢600年の大欅(おおけやき)があったんだけど、いく度も雷様(らいさま)が落ちて枯れちまったんさ。写真は境内末社の石の祠
 
 
 
 
 
 
そんで、しまいに貼った写真は僕の父親のわけぇ時に写した写真なんさ。
 
この写真は、女親が死んでジャンボン(葬式)がすんだ後で、ムラうち(集落の中)をぶらっこぶらっこあるってる時に、たまたま畑で作業してた同級生の母ちゃんに行き会ったんさ。
そん時、初めてその同級生の母ちゃんが僕の父ちゃんと、わけぇ時分にマイバシ(前橋)の県庁の同じ職場で働いてたっつんを話してくれたんさね。
こん時、初めて父親の話を聞いたんさ。
そんで、はぁ昔の写真だけんど、職場の人らと一緒に写した写真があるからっつって、僕の父ちゃんの顔の写真を引き伸ばして送ってくれたんだいね。
ふんとに、ありがたいよね。
それまで、何も聞いてなかったし、女親も何も話さずあの世へ行ったからさぁ・・・
 
そうゆうわけで、はぁ、知ってる人なんかいねぇとおもうけんど、写真を見て何か知ってる人がいればと思って貼ってみたんさ。
 
父親は確か大正14年生まれだったとおもんさね。
戸籍じゃ本籍が前橋市才川町(さいがわまち)、町名変更でいまは若宮町の何丁目かだね。
学校は旧制前橋中学校(前橋高校)を卒業して群馬県庁に入ったんさね。
 
こんな情報ぐれっきゃ分かんねんさ・・・
 
どんなことでもいんで、何か一つでも知ってる人がいたら教えてもらいると助かるんで、お願いします。
 
 
父親が県庁に勤めだした時分の写真

 
 
 
 
 
そんじゃ、締めも短歌で・・・
 
 
歳のかず
増えた増えたよ
また増えた
私の人生
これでいいのだ
 
 
そんじゃ、またね(^^)/