魂の拠り所 | トクチャンのブログ

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裏宿の石の仏様

まぁず、まいんちあちんでやんなっちまぁわいねぇ。

ハァ50年めぇみてぇな夏にゃ戻んねんかなぁ・・・

あの時分はオメェ、クーラーなんかねぇ時代だったけんどさ、団扇であおぐか、旧式の扇風機ぃつけるぐれぇで、家ん中じゅう開けっぴらいておきゃいらいたんだいね。

 

(昔の扇風機)・・・画像はGoogle検索

昔の扇風機はさぁ、どぉ~んとした感じで、カタカタ音ぉたてながら回ってたんだいね。

そんでさ、西日が差し始めるころんなると、いくんちも夕立が続いて、晩方んなりゃスーッと涼しくなったもんさ。

今ぁ、群馬でも夕立がほっとんどねんだっつぅが。

ハァこれからの世の中はオメェ、一人一人が気ぃつけてがねぇと地球温暖化はおさまんねぇで。

つい、そんなことぉかんげぇちまわぁ。

 

まぁ、それについちゃ後で触れるとして、きのう群馬へ墓参りに行ってきたことでも書くべぇかね。

ことしゃ、台風が来るげなんでお盆めぇだったけんど墓参りに行ってきたんさ。

こないだうちみてぇな38度を超えるようなあちんじゃなかったけんど、そんでもあちかったい。

早めに行ってさ、墓参りぃして、あとは育ったとこの部落ん中だの、広瀬川の土手、下武士、小此木、国領あたりぃウォーキングがてらあるって回たんさ。

行ぐとさぁ、いっつも見て回るとこがあんだいね。

なんつんかねぇ・・・

ちっちぇ時分からさぁ、そこい行ぐと、なぁんとなく気が休まったんさね。

そんなんで、今でも昔の様子を思い出せるんさ。

んで、今でも昔と変わんねぇその姿ぁ見て、気が休まるんだいね。

まぁ、なんつんかねぇ、魂の拠り所っつんかねぇ、そんな風景を今回も写真に写してきたんで見てくんなやぁ。

 

裏宿の石の仏様

 

ちっちぇ時分に上の仏様があるあたりでよぉ~くあすんだんさね。

仏様の隣に椿の木があって、木に上ったり、椿の花の蜜を吸ったりしたんさ。

いまでもこの仏様が守ってくれてるような気がするんよ。

 

(広瀬川の土手からタテノヤマの方を見る)

広瀬川もタテノヤマもちっちぇ時分によぉ~くあすんだんさ。

 

広瀬川の土手から見た下蓮(下蓮沼)

 

 

(上とおんなじとこからちぃ~っと東寄りを写した58年前の風景)

 

 

ムラ境(集落の境)の三本辻に建ってる石塔

上の石塔は国領と小此木ぃいぐ道の三本辻に建ってる石塔さ。

この道は国領にあったそろばん塾い行ぐ時に通った道で、よぉ~くおぼいてるんさね。

 

 

国領からきて下蓮(下蓮沼)いへぇってぐ道

 

上の写真の道の右っかわが畑になってるんだけんど、そのおくりの方だったっけかなぁ?ちっちぇ時分に藁ぶき屋根のお堂があったんだいね。

たしか小学生だった時に来たひでぇ台風で屋根がぼっこれて、そのあとは建て替えられなかったみてぇで、今ぁなんにもねんさ。

そのお寺は江戸時代の下蓮沼村絵図に描いてあって、林泉寺っつぅお寺だったみてぇだい。

 

下蓮沼村絵図 林泉寺

 

絵図は南が上で、小此木村と国領村が描いてあるんさね。この下の石塔は林泉寺があったとこの近くにあんだいね。ひょっとしたら林泉寺に関係する石塔じゃねぇかと思うんさ。

それと、絵図の右肩が黒く塗りつぶしてあるけんど、利根川の流れの跡さね。

天明三年、浅間山大噴火の泥流で流れが変わるまじゃ、下蓮沼のすぐ南に流れてたんだと。その跡は田んぼになってるんさ。

そんで、石塔があったとこはちっちぇ時分に墓場があったとこで、いまぁ整理されてて写真の石塔だけがのこってるんさ。

ちゃんと読まなかったんだけんど、石塔にゃなんとか禅尼って彫ってあったんで尼さんがいたお寺だったんかねぇ。

こんだ行ったら調べてみんべぇ。

ちっちぇ時分、林泉寺のお堂の前まじゃ行ったことがなかったんだけんど、国領へ行ぐ道の方からいっつもお堂を眺めてたんさ。

 

それと、下蓮(下蓮沼)の集会所のとこにゃ東林寺っつぅお寺があったんだとね。

明治時代に住職がいなくなっちまってムラ(部落)で守ってたんだけんど、馬見塚の延命寺が火事で焼けたんで東林寺を廃寺にしてお堂をそっくり延命寺に移したんだと。

ちっちぇ時分、集会所のことぉ部落の人は「お寺」っつってたんさね。

その時分、集会所のまわりもあそびばだったんで、よぉ~くおぼいてらい。

そんで集会所の中にゃ今でも仏像が安置されてんだいね。

ちっちぇ時分、子供会なんかで木造だった時分の集会所の畳の部屋に上がると、仏像が安置された仏壇があったんさ。

そんなんで下蓮(下蓮沼)にゃジャンボン時の道具がのこってたんさ。ジャンボンっつんは葬式のことで、行列ぅやる時の竜頭だの、お棺をのっけるジャンボンぐるま、天蓋なんかがあったんさね。

そうさぁ、今から30年ぐれぇめぇにやった、うちのオジイサン、オバアサンのジャンボンときまじゃ、そうゆう道具ぅ使って、坊さんがジャラジャラジャラボーンを鳴らしてジャンボン行列ぅやったんだいね。

 

 

下蓮沼村絵図より東林寺付近

絵図は上が南っかわで東林寺へ例幣使街道から参道があるんがわからいね。

ちょうど僕が育った家の西んちんとこいお寺の大門があったんで、そこんちは部落のテェから「でぇもんち」(大門ち)って呼ばれてたんさね。

それと、東林寺の隣に天神様が描いてあるんね。

ちっちぇ時分になんか聞いたような気もすんだけんど、絵図を見るっつぅとちゃんと描いてあらいね。

田島稲荷もちゃんと描いてあるんね。

 

そんな昔のことぉ思い出しながら三柱神社へ行ったんさ。

ちっちぇ時分、神社の屋根は藁ぶき屋根だったんだいね。

あとで修理したんで昔の面影はすくねんさね・・・

神社じゃよぉ~くあすんだい。

うちから「お寺」(集会所)の脇ぃ通ってよそんちのヤシキん中ぁ抜けてぐんだいね。

あの時分はさぁ、よそんちのヤシキん中ぁ道みてぇにして、部落じゅうの人が通ってたんだいね。いまじゃかんげぇらんねぇけんどさ。

 

 

三柱神社は明治時代の神社合祀令で下蓮沼、上蓮沼、飯島、国領の神社の三柱の神様(飯玉神社、諏訪神社、八幡神社)が合祀されたんだとね。

そんだから、鳥居がみっつあるんさ。

 

三柱神社 拝殿

 

蠺景山

 

 

 

境内末社の祠

 

石灯籠

昔あった天然記念物だった御神木の大ケヤキも幾度も雷が落ちて枯れちまって今はねぇし、藁の御仮屋もなくなってるし、アカマツの大木も枯れたげで今はなくなってらいね。

まぁ、様子はだいぶ変わっちまったけんど、けぇるといっつも神社へは行ぐんさ。

 

 

まぁ、あれだいね。こうゆうとこが自分の中にあるっつぅことは、幸せなんだんべねぇ・・・

他のテェが見たって、たわいもねぇとこだけんどさ、けぇるたんびに行ぐんさね。そうすっと、ふんとに気持ちが落ち着くんさ。

 

まぁ、あっという間だったけんど、行ってよかったい。

 

また、ちけぇうちにでもいぐべぇ。

 

東京へ戻ってぐ時にさ、夏場いぐたんびにオジゴんちに咲いてるヒツジ草の花が今年も見送ってくれたい。

 

 

 

さぁて、また今日っから一所懸命やってぐべぇ。

 

んじゃ、また。

 

あばねぇ~(^^)/