上野國那波郡下蓮沼村絵図・・・江戸時代から明治までの絵図五枚 | トクチャンのブログ

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まっさか寒くなったいね。成人式に出てるわけ~しもきょうあたりゃさみぃんでてぇ~へんだんべね。


さぁてと、前のブログでも紹介したんだけんど、僕が育った伊勢崎市下蓮町(合併前は佐波郡豊受村大字下蓮沼)の昔の絵地図5枚を、今回はみんな紹介させてもらわい。

この地図は下蓮じゃなくって、前橋の図書館で15年ぐれぇ前に元の地図からコピーしたもんなんで、見ずれぇだんべけんど勘弁してくんないね。


地図は5枚あって、一番ふりん(古いもの)が安永6年(1777年)、そん次が文化7年(1810年)、そのあとが天保9年(1838年)、それから、こないだ紹介した嘉永7年(1854年)、しまいが明治2年(1869年)


んじゃ、さっそく紹介していぐべぇ。


一番初めが安永6年の絵地図ね。天明3年の浅間山の大爆発の前になるんで

利根川の本流・七分川が下蓮と飯島の間を流れてた頃さね。


安永六年

よく分かんねんだけんど、ブログに写真を貼ると横んなったり、縦んなったりしちまんさねぇ・・

分かりずらくってわりんね。上の写真は僕の画像ファイルじゃ横なんだけんど、ブログに貼るっつぅと縦になっちゃんさねぇ。

そうゆうことなんで、勘弁してくんない。


↓この写真は縦なんだけんど・・絵地図全体を写した写真さねぇ。地図の上でクリックしてもらえると、ちっとんばいだけんど、でっかくなるんでやってみてくんない。ブログの写真の貼り方がよく分かんねんでわりんねぇ。m(__)m

北   南



現代語版の全体図            北

                         南



真ん中の道は例幣使街道で、写真の下が北で黒くなってるとこが広瀬川


                        北


やっぱり見ずれんね(・_・;)
写真はみんな写真の上でクリックするっつぅとちっとんばいだけんどでっかくなるんでやってみてくんない。

わりんねm(__)m


まぁ、今みてぇにうんと正確な地図じゃねぇけんど、広瀬川や利根川が下蓮のすぐキワまで流れてたんがよく分からいね。



で、次が文化7年の絵地図ね。


文化七年


元の図のコピー(全体図)      北

                       南

↑写真の下、南っかわの流れは利根川で、もうこの時は本流・七分川が天明三年の浅間山爆発の泥流で分流する川口がせき止められて干上がってたとおもんね。

ただ、その頃の利根川は今よりかずっと北側を流れてたはずで、国領の南っかわはハァ利根川が流れてたみてぇね。島村が中州みてぇになってたころじゃねんかねぇ。





                         南

↑                        北

逆さになっちゃったんね・・(・_・;)

上の図の現代語版なんだけんどねぇ


例幣使街道沿い              南

                         北

例幣使街道沿い(元の地図のコピー)  南

                         北  


東林寺付近(東林寺の跡は今の集会所) 

                         北

                          南


↑最近、台風でケヤキが倒れて壊れた田島稲荷社も描いてあるんね。


何で写真が縦んなったり、横んなったり、逆さんなったりするんだんべねぇ・・(・_・;)




さてと、気を取り直して次は天保9年ね。



天保九年




絵図全体

                        南

                        北


東林寺付近

                         南


                        北


安永6年の絵図にも描いてあったけんど、十字路のとこには高札があったんだねぇ



↓例幣使街道沿い十字路付近

                        東

                         西





上の図の現代語版             北


                         南


で、そん次は嘉永7年ね。

嘉永7年のは略図になってるんで場所ごとに細かく載せらいね。


嘉永七年 下蓮沼村略図

                        南

                         北



                         南

                         北


↑広瀬川の流れや旧利根川本流・七分川跡の田んぼがちゃんと描かれてるんがわかっかねぇ?


現代語版                  北

                         南


例幣使街道沿い 上宿から中宿     南

                         北


例幣使街道沿い 中宿から下宿     南

                         北



下宿から下武士方面へ続く例幣使街道  南


                           北

日光例幣使道と書かれてるんが分かるかねぇ?



現代語版                  北


                        南

上の図の例幣使街道の旧道も図の道が切れてるあたりで住宅団地が出来て途切れちゃったんさねぇ。

僕が子供の頃は田んぼの中に旧道が残ってたんね。


国領付近                  北

                        南

国領の南っかわはすぐに利根川だったんね。

左上斜めから利根川に伸びてる黒い帯状の部分は

旧利根川本流跡の田んぼだいね。



国領2                     南

                         北


国領付近の現代語版           北

                        南

下蓮の飯玉神社と合祀された八幡宮が描いてあるんね。



飯島付近・・・薬師様が描いてあるんね。 北

                           南


飯島付近 現代語版              北

                           南


東林寺付近                    北


                           南

東林寺の跡は下蓮町の集会所が建ってて、集会所の中には今でも仏像が安置されてるんさね。 
伝え聞いたとこじゃ、明治時代に住職不在となり廃寺、建物は火事で焼けた馬見塚の延命寺に移されたっつぅ話だいね。例幣使街道に面して山門が建てられてて、山門跡に建てられた家のことを「でぇもんち」(大門)っつたんさね。

僕が子供の頃の延命寺の屋根と東林寺の屋根の形が一緒なんがよく分かるんね。

それと、下蓮十字路の角屋んちの前が高札場だったんだねぇ。



↓三柱神社付近・・・明治時代に合祀される前は飯玉大明神(飯玉神社)

                           東

                         西



三柱神社付近 現代語版         南

                          北


↓国領に手前にあった林泉寺

                          東  

                         西



林泉寺付近の現代語版          北

                          南


林泉寺のお堂は僕が子供の頃まで残ってたけんど、昭和41年の台風26号で吹き倒されて、今じゃハァ残ってねんさねぇ。


↓利根川の度重なる洪水で川筋が常に変わっていたことが書かれてるんね。


「川瀬満水度毎 不一」



保泉、上武士との三ケ村境        北

                          南

上の図の中に加須川(粕川)が描かれてるんが分かるかねぇ?

写真右下隅で広瀬川と粕川が合流してんだいね。


絵図で見てもらって分かるとおもんだけんど、下蓮のあたりは利根川、広瀬川、粕川が流れてて、いつも大雨のたんびに川が溢れて水没してたんさね。

利根川や広瀬川の水運が盛ってたけんど、時には洪水にさらされるとこだったんさ。

右赤城付近から原へ行ぐ道があってその途中辺りを「ニシクボ」っつんだいね。ここいらは土地がひきぃから(低いから)大雨が降ると水が溜まっちまんさね。

「GO!いせさき」っつぅサイトの掲示板に載ってた航空写真を見たらなるほど!と思ったんさ。

ニシクボあたりの畑の区画が北から帯状に川が流れてたようになってんさね。

「ニシクボ」のクボは、おそらく「窪」だんべね。

色々と見せてもらえてよく分かったい。地名っつんはさぁ、その土地の地形をよく表してらいね。


しまいは明治2年ね。


↓明治二年絵図

                        南

                         北


明治2年 現代語版            

                         西

                          東



明治2年絵図 現代語版 下蓮中心部  西


                         東 

下蓮の南っかわ 旧七分川跡の田んぼ付近

                         南  

                         北


国領の南っかわ 旧七分川と三分川合流付近

                         南

                         北


七分川跡の写真撮影付近        南 

                         北


↓2011年8月 上の図のあたりを撮った写真1



  

                         写真2

  

                         写真3  


下蓮の南っかわの七分川の流れた後は、今でも田んぼんなってのこってるんさね。

ここいらは貴重な史跡として残してほしいやね。

上蓮の五十嵐市長さん、たのまいね。島村の養蚕農家群も貴重だけんどさ、豊受の長沼、上蓮、飯島、下蓮、国領あたりにゃ、まだこんなに貴重な史跡が残ってるんだいね。

島村の養蚕農家もこういった土地で、米がおうかとれねぇから種屋んなってシンショウ残したんだかんね。


七分川の跡の田んぼ付近

これで下蓮沼村の絵図と略図は全部ね。


なんだか縦んなったり、横んなったり、逆さんなったり、写真もちぃせぇから見ずれぇだんべけんど、勘弁してくんない。

このブログで興味を持ったら前橋の図書館へ行けば本物が見らいるんでそうしてくんない。


こうゆう史跡っつんはさぁ、見る人によっちゃ価値もへったくれもなかんべけんど、僕にとっちゃ故郷の歴史がぎっしり詰まった世界遺産にもひけをとらねぇ貴重な遺産だいね。


下蓮にもさぁ、三柱神社のご神木・群馬県指定天然記念物の大ケヤキがあったんだけんど、度重なる落雷がもとで枯れちゃったし、林泉寺も台風でふき倒されてなくなっちまったし、最近じゃ田島稲荷のケヤキが台風で倒れて社殿が壊れてなくなっちゃったし・・・・

それに下蓮のそこいら中にあったでっけぇ養蚕農家もほとんどが建て替えられてなくなっちゃったんさ。

ただ、豊受でも一番か二番目にでっけぇ家がまだ残ってるんだいね。昔はここいらじゃ有名な大地主のお宅で

母屋は元々総やぐらだったけんど、やぐらが無くなっただけで建物は昔のまんまさね。

母屋の他にも色んな建物が残ってたけんど、重厚な母屋はいまだに威容を誇ってるんさ。

下蓮を代表する養蚕農家建築さね。


下蓮一番の養蚕農家建築

へへ、最後は下蓮の自慢になっちゃったい。


下蓮もいいとこなんで広瀬川のサイクリング道路からちぃ~っと外れて、あすびぃ来てくんねぇ~かい。


んじゃ、またね。


あばねぇ~(^-^)/