秦の始皇帝の『不老不死の薬を探す』命を受け、3,000人を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出し日本の紀州にやってきたという徐福。

 

 

徐福の墓が、熊野市波田須にあります。

 

はたの人が住む地 ー> はたすみ が由来で波田須(はだす)の地名の由来だとか。。

 

波田須(はだす)/徐福の宮・徐福の墓

徐福の宮

 

道中、寄って行ってきました。

 

国道沿いにある徐福茶屋が目印。

本日は、営業してませんでした。

 
徐福茶屋から徐福ノ宮が、遠くに見えます。
 
下りまくって、
 
徐福の墓
 
大きな楠が生えています。
間伐、枝の伐採もしていて手入れが行き届いております。
 
 
横に熊野市の解説があります。

『徐福の一行は数十艘で出航したが、途中で台風に遭い、徐福を乗せた船だけが波田須に流れ着いた。当時の波田須には3軒しか家がなかったが、この3軒は徐福らの世話を行った。当地に上陸した徐福は中国への帰国を諦め、「秦」に由来する「ハタ」と読む姓(波田、羽田、畑など)を名乗り、窯を作り焼き物の作り方を村人に教えた。さらに土木事業、農耕、捕鯨、医薬品、製鉄など、この地域になかった文明を次々と伝授した。このため住民は、徐福を神として崇めた。』

 

 
回りに集落が出来ており、徐福の宮・街を護ってます。

 

結構、みずぼらしい墓でした^^

 

上陸地と言われているが、墓が守られていることから有力

 

徐福が帰国を断念して永住 中国文化を伝えたこと。

不老不死の薬は、ここに自生する天台鳥薬(てんだいうやく)である。

と書かれてます。

 

天台鳥薬は、楠(くすのき)科で、中国から江戸時代に伝来したとあるがwwww

 

三重県は、薬草の研究が盛んな原点は、ここにあるのかもしれません。

 

 

 

徐福の他、神武天皇ご一行が、大陸から、土木事業、農耕、捕鯨、医薬品、製鉄、測量、等の技術を日本に伝えたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

三重県の海岸線の特殊地形。
 
海岸沿いに色々とあるのですが、行きやすそうなところで、世界遺産 鬼ケ城、寄ってみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほぼ一周して戻りました。

 

海の碧いし、、、、蒸し暑さでクタクタになりました。