徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 京都、嵯峨の清凉寺を起点に、鳥居本を抜け、清滝川を過ぎて愛宕山に至る「愛宕街道」は、全国に八百余ある火難除けの神を祀る愛宕社の、総本社へ続く参詣道である。

 古くから修験者の修験場であった愛宕山は、丹波・山城両国の境にそびえる霊山である。都の鬼門を守る北東の比叡山に対し、北西の愛宕山は、平安京の守り神が宿る王城鎮護の聖地とされた。世俗には、火伏の神である迦遇槌(かぐつち)を中心に鎮火の神として尊崇うされ、中世以降は、神仏習合の進展によって、修験道の霊場としてさらに発展。愛宕権現とも称された。 祭神は天狗の姿をした愛宕権現太郎坊。そして、本持仏は勝軍(しょうぐん)地蔵と名付けられ、武家に篤く信仰された。

 明智光秀は、本能寺の変の4日前に愛宕山に詣でたといわれ、徳川家康は武運長久を祈り、江戸芝の桜田山(愛宕山)に神霊を勧請した。

 江戸時代に入ると、多くの庶民が愛宕山に詣でるようになり、「伊勢は七度(たび)、熊野は三度、愛宕参りは月参り」という言葉は、この頃に生まれた。一生の内、伊勢参宮は七回、熊野参詣は三回、愛宕参りは毎月、というのである。しかし、明治初頭の廃仏毀釈により、勝軍地蔵はよそへ移され、愛宕権現から愛宕神社になった。

 毎年7月31日の夕刻、愛宕街道には長い行列ができる。一日参ると千日の参詣に等しい功徳があると信じられる、「千日詣で」の人々である。