峠 

司馬遼太郎著 新潮文庫


幕末、雪深い越後長岡藩から一人の藩士が江戸に出府した。藩の持て余し者でもあったこの男、河井継之助は、いくつかの塾に学びながら、詩文、洋学など単なる知識を得るための勉学は一切せず、歴史や世界の動きなど、ものごとの原理を知ろうと努めるのであった。さらに、江戸の学問にあきたらなくなった河井は、備中松山の藩財政を立て直した山田方谷のもとへ留学するため旅に出る。


-武士にとって最高のモラルはいさぎよさということであり、この道徳美は自分が武士であるかぎりまもらねばならぬ。


-君子あやうきに近よらず

 無事是好日

 頭をはられてもはっても恥辱の事


-町人が勃興し、貨幣経済が発達し、世の中は米ではなく貨幣でうごくようになり、かつひとの暮らしも贅沢になった。目さきに敏感な西国諸藩はもう百年も前からこの体制の欠陥に気づき、米作本位の経済にあわせて、殖産と内国貿易を開発し、密貿易などをして大いに金銀をたくわえているという。


-農地にむかぬためにスイスは古来牧畜を主産業とし、バター、チーズなどの乳製品を他のヨーロッパ諸国に輸出して暮らしをゆたかにしてきた。近世になってからは牧畜だけでなく、機械類を作っては他の国に売り始めた。他国へ出る峠道が長大でありすぎるため、大きな機械では輸送が不自由だからである。このためスイスの得意とするのは精密機械で、とくに時計であるという。


-侍というのは、成るか成らぬかわからぬ将来のことはいわない。うそになるおそれがあるからであろう。


-朱子学では天地万物はちゃんと客観的に存在する。いっさいが客観的存在であるという。陽明学ではそうは見ない。それら天地万物は人間であるオノレがそのように目で見、心で感応しているからそのように存在している。  天地万象も人間の心も「同体である」という。 だから心をつねに曇らさずに保っておくと、物事がよくみえる。学問とはなにか。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。


-儒教の根本義である仁というものである。儒教では惻隠の情というものを重く見る。


-武士とは、精神の美であるという。その美の像ができあがるまでに、徳川三百年というながい歳月がついやされている。


-書物の種類がすくなかったころだけに、人がいわば書物のような時代であった。


-天皇 この国の王家であるとともに、日本の固有信仰である神道の宗家でもあった。日本の天子の位置には宗教性が濃く、たとえば中国の皇帝とは違っている。


-古来、東海道は権力往復の地である。歴史をみても、源平のころ、京の権力(平家)が鎌倉(源氏)へ移り、つづいて足利氏が逆に関東で興って京都で政権をたてた。織田氏は尾張でおこって京にゆき、豊臣氏もそれをついだ。徳川氏は三河でおこって、京の権力を関東に移した。すべて東海道を往復しているところを見ると、この街道は単に交通路ではなく、日本の生命とかかわりがあるらしい。


-東海道には五十三の駅があり、幕府が管理している。その五十三の駅のことごとくに官許の娼妓が置かれている。また、江戸の名物は浮世絵版画で、これは春画である。さらには日本人は好色譚をこのむ。この種の淫靡への寛容さはキリスト教国にはない。


-人間の美しさのひとつは、老いるにつれて自分の過去が美しくみえてくることであろう。


-京では西本願寺が勤王色が濃く、これに反して東本願寺が明確に佐幕派であった。両派とも一万カ寺内外の末寺をひきい、その経済力は鴻池に匹敵し、法主はそれぞれ門跡であり、親王・公卿の処遇にひとしい。ちなみに西本願寺は豊臣秀吉に庇護され、徳川期に入り、家康は本願寺勢力を削ぐために分派させ、東本願寺をたてさせた。


-武士というものはどんな意味の死でも、つねにその場で死にうる覚悟を養っているべきだというのが、継之助の日常の思想であった。


-人の世は、自分を表現する場なのだ。自分の志、才能、願望、うらみつらみ、などといったもろもろの思いを、この世でぶちまけて表現し、燃焼しきってしまわねば怨念がのこる。


-田舎の三年、京の昼寝


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河井継之助

江戸末期の長岡藩士。佐久間象山・古賀謹堂に学ぶ。長岡藩の藩政改革に尽力。戊辰戦争に藩の中立を説いたが、明治政府軍にいれられず交戦。長岡城奪還戦で負傷。会津にむかう途中死去