坂の上の雲 (五)
司馬遼太郎著 文春文庫
日本政府がやった対露戦の戦略計画は、ちょうど綱渡りをするような、つまりこの計画という一本のロープを踏みはずしては勝つ方法がないというものであった。(中略)緒戦ですばやく手を出してなぐりつければ国際的印象が日本の勝利のようにみえ、戦費調達のための外債もうまくゆく。アメリカも調停する気になる。この点をひとつでも踏みはずせば、日本は敗亡するというきわどさである。
強靭な旅順要塞の攻撃を担当した第三軍は、鉄壁を正面から攻めておびただしい血を流しつづけた。一方、ロシアの大艦隊が、東洋に向かってヨーロッパを発航した。これが日本近海に姿を現せば、いま旅順港深く息をひそめている敵艦隊も再び勢いをえるだろう。それはこの国の滅亡を意味する。が、要塞は依然として堕ちない。
司馬遼太郎は小説の中で、彼が理解している国や文明、文化の成り立ちをときに解説している。我々が歴史を振り返るときに、単純になぜ、どうしてと思うときがあるが、背景を深く知れば、そうせざるを得なかったと理解できるときがある。
例えば「国家」と国民に関する記述の中で、明快に分析、評価された文脈がある・・・・。
日本人が「国家」というものに参加したのは、明治政府の成立からである。近代国家になったということが庶民の生活にじかに突き刺さってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵の憲法のもとに、明治以前には戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家というものは「近代」という言葉の幻覚によって国民にかならずしも福祉をのみ与えるものでなく、戦場での死をも強制するものであった。
日本の戦国期の戦争といえば、足軽にいたるまで軍人は職業であった。その職業からのがれる自由ももっていたし、もっと巨大な自由は、自分たちの大将が無能である場合、その支配下かからのばれる自由させもっていた。このため戦国の無能な武将たちは、敵に負けるよりもさきに、その配下の将士たちがかれらの主人を見限って散ってしまいうことにより自滅した。
(近代国家はそうではなく、自由を認めず、戦場にあっては無能な指揮官といえでも服従以外になかった。)
が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛でなく、ときにはその重圧が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからであった。(203高地の日本軍兵士の勇敢さにはそういう歴史的精神と事情が波打っている。)
高だか100余年の年月を経るだけで大きく民心が変化する。変化、進化の度合いが歴史上、急激に変動するとは言え、今後日本に訪れくるものは何か・・?